世界中でなぜかフェミニスト団体が漫画やゲームといったオタクが好むジャンルに対してばかり規制をかけようとするのはなぜか、というのを考察してらっしゃる方がいたのでまとめておきます。
「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」という漫画が、 喪女漫画としてネットの一部で流行しているらしい。 死ねばいいと思う。一番死んで欲しいのは原作者。 次に死んで欲しいのは「私モテ」を拡散したまとめブログ。 最後に死んで欲しいのは「私モテ」のファン。 何が一番腹立つかって、主人公は喪男を女体化したものであって、喪女ではないということ。 まずタイトルが喪男。もてないことを社会のせい、女のせいにしたがるのは喪男の特徴。 増田の非モテ論争でも「国は少子化改善のために喪男に女を配給するべき」とかしつこく主張してた奴が居た。 そこまでキチじゃなくても、俺がもてないのは恋愛至上主義の社会のせい、バブル文化のせい、 女がイケメン好きなせい、お見合い制度が崩壊したせい、いろいろ理屈つけて他責にする。 喪女は、自分がブスでコミュ障だからもてないということをよく理解している。 もてたいならブスとコミュ障
「会話はキャッチボールなんだよ」ってのは良く聞くお説教だが、私は今までその意味合いを勘違いしてきたようだ。最近、ようやくそれが判明した。 私はこれまで、この言葉の意味を「一方的に話すな」と言う意味として捉えてきた。会話はスピーチじゃないんだから、こちらが喋った後は、相手も喋る。会話が行き交う。つまりキャッチボールなのであると。 だから私は、そんなことは当たり前じゃないか、と思ってきた。私はコミュニケーション不得手ではあるけれど、別に、自分が喋ったら即、耳をふさいで「あーあーあーあー、きこえなーい、きこえなーい、ぜんぜんきこえなーい」とか首を振り振り、叫んでいるわけじゃないのだ。キャッチボールはちゃんとやっている。訳の分からんお説教するな。そう思ってきた。 しかし、この捉え方が、根本的なところで大きく間違っていることが判明した。 ポイントは「キャッチボール」という暗喩である。 良く考えてみれ
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