大学院ゼミで、渡辺浩先生の『明治革命・性・文明』(東京大学出版会、2021)をじっくり通読した。渡辺先生の議論は大変面白く読めたのだが、一番印象に残った部分として、岩倉使節団の面々の「宗教観」がある(第八章「「教」と陰謀―国体の一… https://t.co/V3goTOhEvN
【連載】『歴史とは何か』の人びと(1) E・H・カー(一八九二─一九八二)との遭遇は前触れなしであった。一九八〇年の夏の終わりに始まったわたしのケインブリッジ留学生活だが、所属はチャーチル学寮で、その家族寮に住んでいた。チャーチルにもロイ・ポータ、マーク・ゴールディ、ポール・ギンズバーグといった才気走った若手歴史家はいたのだが、わたしの研究指導教員(スーパーヴァイザ)、ボイド・ヒルトンはトリニティ学寮のフェローなので、研究面談はそちらで行われた。歴史学部における講義とは別立てである。ボイドは当時まだ三五歳、博士論文をもとに公刊されたモノグラフ『穀物・カネ・商業』で知られていた。一九世紀イギリスの政治社会史という点では、カーの『歴史とは何か 新版』(岩波書店、二〇二二)にも出てくるG・キトスン=クラークの後任という役回りだったのかもしれない 大学都市ケインブリッジの緑ゆたかな郊外を自転車でゆ
政治に参加する平等な権利を一人ひとりの市民に保障する民主主義。日本で暮らしていると当然のことのように思えますが、世界では、民主主義国家はむしろ少数派に属するそうです。この先、民主主義ははたして生き残れるのでしょうか。生き残るためには、何が必要なのでしょうか。民主主義の辿ってきた歴史から考えます。東京大学社会科学研究所 宇野重規教授へのインタビューです。 ――古代ギリシアで生まれて以来、「民主主義」は大半の期間で衆愚政治のようなニュアンスの悪口として使われてきたということでしたが、ポジティブな意味合いになったのはいつ頃からですか。 基本的には20世紀になってからだと思いますが、どんなに遡っても19世紀の前半でしょうね。きっかけの一つになったのはトクヴィル(1805-1859)の著した『アメリカのデモクラシー』(1835年発行)という本です。 先ほどお話した通り、アメリカでは建国以来、民主制よ
政治に参加する平等な権利を一人ひとりの市民に保障する民主主義。日本で暮らしていると当然のことのように思えますが、世界では、民主主義国家はむしろ少数派に属するそうです。この先、民主主義ははたして生き残れるのでしょうか。生き残るためには、何が必要なのでしょうか。民主主義の辿ってきた歴史から考えます。東京大学社会科学研究所 宇野重規教授へのインタビューです。 ――民主主義は古代ギリシアからはじまったとよく聞きますが、起源を考える上でポイントになるのはどういったところですか。 民主主義の起源をどこに見るかというのは、実は論争の的です。クリティカルな研究者ほど、古代ギリシアとは言いたくない。もっと多様であるという意見が近年特に多くなっています。 デモクラシーの語源は古代ギリシア語の「デモクラティア」なので、そういう意味では古代ギリシアで生まれたことに間違いはないのですが、この言葉を構成している「デー
ロシアのウクライナ侵攻によって世界はどう変わるのか。国際政治研究はどうあるべきなのか。東大で30年以上国際政治研究に携わり、今年度で東大を退職される藤原教授のロングインタビュー後編。 (取材・円光門、撮影・中井健太) 藤原帰一(ふじわら・きいち)教授(東京大学大学院法学政治学研究科) 米イエール大学大学院政治学研究科博士課程留学を経て、84年東大法学政治学研究科博士課程単位取得退学。東大社会科学研究所助教授(当時)などを経て、99年より現職。著書に『平和のリアリズム』(岩波書店)、『国際政治』(放送大学教育振興会)、『不安定化する世界——何が終わり、何が変わったのか』(朝日新聞出版社)など。 【インタビュー前編はこちら】 「アイデンティティへの疑問がナショナリズム研究につながった」藤原帰一教授 退職記念インタビュー【前編】 ──今回のウクライナ侵攻で、ロシアに対する大規模な経済制裁が行われ
東大で30年以上国際政治研究に携わり、東南アジアのナショナリズム、民主化から国際秩序に至るまで活発な議論を展開してきた藤原帰一教授のロングインタビューを2回に分けてお届けする。前編では、藤原教授に自身の学生生活や研究内容の展開、現地調査での経験などについて聞いた。 (取材・円光門、撮影・中井健太) 藤原帰一(ふじわら・きいち)教授(法学政治学研究科) 米イエール大学大学院政治学研究科博士課程留学を経て、84年東大法学政治学研究科博士課程単位取得退学。東大社会科学研究所助教授(当時)などを経て、99年より現職。著書に『平和のリアリズム』(岩波書店)、『国際政治』(放送大学教育振興会)、『不安定化する世界——何が終わり、何が変わったのか』(朝日新書)など。 【インタビュー後編はこちら】 「恐怖の中で思考し続けることが国際政治の分析だ」藤原帰一教授 退職記念インタビュー【後編】 ──1975年
アレントの『全体主義の諸起源』は、歴史的起源を偶然の産物として描く。ここで、ブローデルらによる歴史社会学の方法に触れておこう。出来事は、ふつうそのまま社会構造の変革を生み出すことはない。技術革新は、その分野の生産性を高め、大きな収益を生み出すが、その変化はやがて市場によって安定価格に導かれ、総じて構造に変化をもたらすことはない。 しかし、18世紀のイングランドにおけるように、紡績機と紡織機の改良が、互いに互いの技術開発を刺激し合うことが起こると、その周辺に工具や部品製造の産業が集積し始める。簡単に部品がそろう市場の集中が、次の技術革新を可能にするのである(例えば秋葉原のことを考えるだけでよい)。どのような所に需要の拡大と供給のひっ迫が起こり、どのような技術革新が起こっているかを知らせる業界情報誌などの存在も、技術革新を準備するには必要な社会的インフラとなる。こうして持続的な技術革新を可能に
橋川文三『日本浪漫派批判序説』を読む。日本浪漫派とは、第二次世界大戦期の日本で流行った思想。閉塞した状況を扇動的な美的言辞でくるんでしまうような思想で、多くの文学青年が日本浪漫派の、というより領袖の「保田与重郎」の言葉を胸に、死地に赴いたのだという。橋川もその一人で、戦後、世間の日本浪漫派観が「騙された」反動としての痛罵や嘲笑に終始する中、「なぜ魅力的だったのか」を考えようとした書物。 面白いのが、戦前の扇動的言説というとイケイケの特攻精神を想像しがちだが、そうしたものではないこと。むしろ、軍国主義に傾く世相のなか、政治的に無力な文学者が、徹底的に美学的に思考停止したものだ。保田の評論の引用で一番印象的なのが、以下の一節だ。 「日本の新しい精神の混沌と未完の状態や、破壊と建設を同時的に確保した日本のイロニイ、さらに進んではイロニイとしての日本といったものへのリアリズムが、日本浪漫派の基盤と
明治憲法と日本国憲法の相違点/国務と統帥の分裂/行き詰まりと混迷/打開への模索/大本営政府連絡懇談会・連絡会議/目まぐるしく変更された「国策」/支離滅裂な文章/「国策」の決定者たち/政党の凋落/帝国議会の行き着いた先/参謀本部の発言力拡大/「大角人事」の後遺症/陸海軍の危ういバランス/「国策」決定の手順/天皇の意志表示/「船頭多くして船山に登る」/ゴミ箱モデル 松岡の閣外放逐/日米交渉に積極的だった閣僚/虎の尾を踏んだ南部仏印進駐/対米開戦論の勃興/「帝国国策遂行方針」の起案/近衛首相の決意/出師準備と「遂行方針」の提示/海軍部内の情勢判断/「遂行方針」の文面をめぐる攻防/陸軍の硬化と情勢の急転/参謀本部の強硬論と陸海軍折衝/「目途」の問題/曖昧なままの「遂行要領」/天皇の不満/「遂行要領」の「両論並立」性/曖昧な対米条件/外務省の奮闘と目論見/挫折した寺崎の意図/「日支間の協定」の真意/
バーリンにおける理論・歴史・表現 松本礼二 アイザィア・バーリンの主著は何だろうか。ロールズにおける『正義論』に当るような作品をあげることはできない。複数選ぶとしても、候補が多すぎる。いちばん知られているのは「二つの自由概念」だろうが、それ自体はさして長くない教授就任講義である。しかも、反響が大きかった分、事後の加筆、修正、関連論文が少なくない。この文章を含むFour Essays on Liberty(『自由論』、小川晃一他訳、みすず書房、一九七一年)だけでバーリンの自由主義を論ずるわけにはいかないだろう。バーリンの思想の核心には「価値多元論value-pluralism」があるといわれるが、これを理論的に説明したテクストがあるわけではない。反面、マキアヴェッリからゲルツェンに至る政治思想の研究はこの問題に深く関わっている。その意味で、ヴィーコ、ハーマン、ヘルダー、ロマン主義と続く反啓蒙
はじめに はじめまして。ついこの前UmeeTに加わりました、ゆりです。 東大には法学部推薦入試に合格して入学しました。専門はいわゆる地方自治です。 長野出身、自然大好き、田舎最高。東京の暮らしにもやっと慣れてきました。 UmeeTに入ったのは先輩のりほさん(美男美女とお酒が好きなライターさん)にオススメしてもらったからなんですが、特に魅力的だったのが、教授に取材にいけるという点でした。 大学に入学して、自分の専門のみならず、関心のある分野の授業を受けてきたわけですが、 なかなか進路が定まらない。私のやりたいことには様々なアプローチ方法があるので、選択肢は増えるばかりなんです。なのに気が付けば、春には三年生。そこで先輩と話してて思いました。 地方自治のプロにインタビューに行けば、なにかヒントがみつかるのではないか。 ということで今回は、東京大学法学部大学院・金井利之教授に、地方自治について伺
<戸塚秀夫(とつかひでお):東京大学名誉教授> はじめに 倉塚さんの訃報を友人たちに伝えたとき、「偲ぶ会」をもてないか、という声を届けてくださったのが松沢弘陽氏であり、それに直ちに賛同してくださったのが和田春樹氏であった。このお二人に登場していただければ、倉塚さんの学問と実践の全貌が浮かび上がるに違いない、というのが私のアイディアであったが、ともにペーパーが準備された立派なご報告であった。それに較べれば、私の話は即席の雑談程度のもので、ここに収録するのも気恥ずかしいのだが、倉塚さんが生きた時代、ベースとした職場の雰囲気をつたえるつもりで、少し手を入れて投稿することにした。学者の道を歩み始めた彼の初心に接した当時のことが、私の倉塚論の前提になっているように思うからである。なお、「偲ぶ会」で刺激されて調べたこと、宿題として意識したことについては、補遺としてメモすることにする。 明大政経学部での
文・宇野重規本書は戦後日本の政治学を主導した丸山眞男のデビュー作である。1940年から44年までの間に発表された三つの論文から構成されるが、特に江戸時代における「国民主義」の形成を論じた第三論文に至っては、出征のその朝に新宿駅で同僚の辻清明に原稿が手渡されたという。いずれも鋭い緊張感の下、丸山独自の鮮やかな論理展開が示されるが、今となっては古めかしい文体の下に、若き日の政治学者の知的興奮と不屈の精神がうかがえる。 しかし、この本を現代の僕らはどのように読むべきなのだろうか。伊藤仁斎−荻生徂徠−本居宣長を中心とする江戸思想史の研究書として読むなら、問題点は明らかだろう。何より、著者自身、後年認めているように、江戸の「正統的イデオロギー」である朱子学が仁斎・徂徠らの批判を受けて解体したという図式自体がもはや成り立たない。朱子学が社会的イデオロギーとして普及したのは古学派の挑戦と同時代であり、そ
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