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哲学と方法論に関するja_bra_af_cuのブックマーク (10)

  • 哲学の論文に論証が必要であるわけではないこと|山口尚|note

    哲学の論文について「この論文には論証が無い」と批判するひとがいる。こうした批判が的を射たものかどうかはケース・バイ・ケースである。なぜなら――必ずや掴んでおくべき点として――狭義の「論証」には、すなわち論理的に形式化された論証には、行なえない仕事が哲学には存在するからだ。その仕事とは〈物事を新たな相のもとで見られるようにする〉という仕事だ。以下、この点を直感的に説明したい。 「論証(argument)」は、狭義には(すなわち一般に学術的な意味では)、複数の前提から結論を導き出すという構造をもつタイプの文章を指す。ここで――論証の重要な特徴だが――前提と結論のあいだで語の解釈は一定である。さもなければいわゆる「誤謬(fallacy)」が生じる。 さて押さえるべきは、〈物の見方を変える〉というのはこうした論証の行ないうることではない、という点だ。例えば――比喩的な説明になるが――次の図Aを見て

    哲学の論文に論証が必要であるわけではないこと|山口尚|note
  • 哲学のわかり方 - ふくろうは昼寝中

    哲学者はなぜ部屋に引きこもって他人の文章を読むだけで研究できるのか。なぜ外に出てデータを取りにいかないのか? この疑問に対して自分なりの回答を用意しておく必要があるとつねづね思っているが(学際的な分野に関わっているとしばしば言い訳が求められるので!)、昨日授業後に雑談していて、こういう答え方ができるかなと思いついたことがいくつかあった。*1 たとえば歴史学者や社会学者や人類学者は、まだわからないこと、まだ知らないことを明らかにしようとするところにモチベーションがある。それゆえ、外の世界に出て新しいデータを見つけようとする。比喩で言えば、ジグソーパズルを完成させるために欠けたピースを探す。パズルのように決まった正解があるわけではないので、むしろモザイク画を作るための素材を探す、という比喩のほうが適切かもしれない。 一方で哲学者は、自分(および想定される読者)がすでにそれなりにわかっていること

    哲学のわかり方 - ふくろうは昼寝中
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2021/06/17
    "自分と想定読者が直観を共有していることについて強引に同意を求めているように見えるところが、他分野の人からすれば気持ち悪いんだろう"
  • 3.1 哲学者の積み木 - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える

    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2021/06/17
    "歴史的事実や物理的事実は新たなデータが出ればくつがえることもあるが、哲学者が問題にしているのは、そういうタイプの事柄ではない"
  • 哲学的考察が「浅い」と言われるとき|山口尚

    自分の facebook の投稿を振り返っていると、2014年10月19日に以下のような文章をあげていた。もう6年以上経ったのか! 題名は「哲学的考察が「浅い」と言われるとき」である。ひとによっては何かしら役に立つかもしれないのでここにアップロードしておく。 >>> http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20141015/p1 森君のブログ(うえのリンク)にもありますが「分析哲学は浅い」と批判されることがあるようです(あるいは「薄っぺらだ」や「当の哲学でない」などの表現で批判されることもある)。 「分析哲学は浅いか」――この問いについて気になるのは、ここでの「浅い」はどういう意味か、です。以下、私の考えを述べます。 まずは前置き。私の関心は《分析哲学は質的に浅いか否か》にはありません。「分析哲学」と呼ばれる伝統に属す者が深い思索を展開しうるか否かは、結局のと

    哲学的考察が「浅い」と言われるとき|山口尚
  • あとがきたちよみ/『思考力改善ドリル 批判的思考から科学的思考へ』 - けいそうビブリオフィル

    あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひの雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 植原 亮 著 『思考力改善ドリル 批判的思考から科学的思考へ』 →〈「はしがき」「第1章」「第23章」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 はしがき 書のねらいと特色 書は、読者の思考力を改善することを目標にしたテキストである。ここでの思考力改善とは、おおまかに言えば、頭をうまく使い、誤りを避けながら、思考を進めていけるようになることだ。 この思考力改善というゴールを目指して、書では次の2 点を重視する。 1 .人間に備わる「頭の弱点」に注意できるようになる。 2 .「思考ツール」、つまり思考をきちんと進めるための方法や道具を身につける。 人間の頭はし

    あとがきたちよみ/『思考力改善ドリル 批判的思考から科学的思考へ』 - けいそうビブリオフィル
  • 「分析哲学」の使命は”論理の明晰化”にあり – 『フィルカル』編集長・長田怜氏

    分析哲学という分野をご存知だろうか。アメリカやイギリスなどの英米圏では、哲学といえば分析哲学のことを指すほどメジャーな分野になっている。日でも研究が盛んに行われており、3年前には若い世代の研究者が中心となり「分析哲学と文化をつなぐ」をコンセプトとした『フィルカル』という雑誌も創刊された。編集長を務める長田怜氏に、分析哲学とは一般的に思い浮かべる哲学とはどのように違うのか、『フィルカル』とはどのような雑誌なのか、お話を伺った。 分析哲学ってどんな学問? ——まずはじめに分析哲学とはどんな分野か、他の哲学との違いについて教えてください。 おそらく、日人が思い描く哲学者のイメージというのはドイツやフランスの「大陸哲学」の哲学者だと思います。ハイデガーやデリダなどの大家の哲学者がたくさんいて、彼らが主張していることを丹念に読み解くのが哲学であるというイメージを抱いている方は多いのではないでしょ

    「分析哲学」の使命は”論理の明晰化”にあり – 『フィルカル』編集長・長田怜氏
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2019/06/19
    "バウハウスというドイツの学校へ、カルナップが講演に行っていたこともわかってきました。彼がそこに行ったのは当時の建築運動と彼の研究の理念が何か共振したからだと思います" ここでもモダニズムが
  • 視聴メモ:「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」…必要、ただし困ったときだけ(?) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

    先週の金曜日、下記のイベントが行われた。 伊勢田哲治×三中信宏 司会=山貴光「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」@ゲンロンカフェ 2019年2月22日 科学哲学者の伊勢田哲治先生(以下、伊勢田氏)と、生物系統学を専門とする三中信宏先生(以下、三中氏)が、山貴光さんの司会のもと対談をするというイベント。 3人のファンである私としては、一も二もなく参加……したかったのだが、都合がつかなかったので、ニコニコ動画のタイムシフトで視聴した*1。 以下、印象が薄れないうちに感想をメモしておく。 ※視聴後に思い出しながら書いた雑な備忘録です。細かい引用などは正確ではないかもしれませんので、ご注意ください。なお、山さんご自身によるイベントレポートと関連文献紹介がこちらにあります:イヴェント「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」 - 作品メモランダム 科学にとって科学

    視聴メモ:「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」…必要、ただし困ったときだけ(?) - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)
  • 『意味を哲学する』:第二回「意味を題材に哲学をしてみる」 - 三木那由他 - 資料公開 - researchmap

    2015年度京都大学哲学基礎文化学系ゼミナールにおける講義資料. 必要十分条件の提示と反例構築による批判的検討という分析哲学の基手法を解説し,その具体例として話し手の意味の分析を紹介している.

    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2018/02/05
    必要十分条件を求めることによる分析
  • 再掲:ファーストオーダーの哲学,セカンドオーダーの哲学

    同じくサール先生のインタビューからもういっこ.こちらは,「ファーストオーダー」の哲学と「哲学者が語ったことについての哲学」(いわばセカンドオーダーの哲学)についてサールせんせいが述べてるところ: たとえば,民主主義に向かって努力すべきであり,民主主義に価値を置くべきだってローティは言うでしょ.でも,「しかし私はみかけと現実の区別をしりぞける」って言うんだよね.でも,民主主義を尊重しようにも,物の民主主義とインチキ民主主義やらニセ民主主義やらの区別をする用意ができてなきゃやりようがないじゃない.人民民主主義だとか,ヨーロッパのファシズムや共産主義みたいな全体主義的民主主義なんてのがあるわけでね.ああいうのは,たいてい民主主義を自称してるけど,ただのみせかけと言うほかないよね.ホントは民主主義なんかじゃない. ローティは,「いや,私は真と偽の区別をしりぞけるんだ」って言うよね.それでいて,

  • ポール・リクール「解釈学的論理学?」(1981年)[1/2] - un coin quelconque de ce qui est

    [以下は Paul Ricœur, «Logique herméneutique?», dans: Écrits et conférences 2. Herméneutique, Paris (Seuil) 2010, p.123-196 の下訳。ガダマーによる展開、批判理論やウィトゲンシュタインとの関係など、ハイデガー以後の解釈学の動向を総決算する内容となっている。 付されている注のほとんどは編集者の注であるが、リクール自身による原注と一緒にナンバリングされているので判別しづらい。そのため原注には注の頭に(NdA)と略記し一目でわかるようにした。またリクールの原注に挿入された[ ]の解説のうち、(NdE)の表記があるものも編集者によるものであり、それ以外の、(NdE)の表記のない挿入は訳者の解説である。またドイツ語の重要文献にかんする編集者の注にはフランス語の訳書のページ数が示されている

    ポール・リクール「解釈学的論理学?」(1981年)[1/2] - un coin quelconque de ce qui est
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