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歴史と小野田寛郎に関するmorobitokozouのブックマーク (2)

  • 小野田寛郎さんはサイコパスだった: 日光かわず庵雑記帖 by たくき よしみつ

    フェイスブックの今日は何の日的な書き込みで、「57年前の今日(1959/03/15)、フィリピン、ルバング島の小野田寛郎少尉と小塚金七一等兵が日比合同捜査隊に発砲する」というのを目にした。 横井庄一さん、小野田寛郎さんの帰還はテレビで大々的に中継されていたから鮮明に覚えている。でも、小野田さんと一緒に潜伏していた日兵が複数いて、仲間は戦後だいぶ経ってから銃撃戦の中で死んで、小野田さんだけが戻って来たことは、記憶としては残っているけれど、詳細については知らないことが多いと気づいた。 そこで、実際はどういう経緯だったのか、調べてみることにした。 時系列でまとめると、 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に

    小野田寛郎さんはサイコパスだった: 日光かわず庵雑記帖 by たくき よしみつ
  • 小野田さん帰国 42年後の真実|NHK NEWS WEB

    太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日に帰国したときは、日中が沸き立ちました。 小野田さんの帰国を巡って、日とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者) 残留日兵 小野田寛郎さん 7月23日、日とフィリピンは、国交正常化から60年を迎えました。太平洋戦争末期、最も過酷な戦場の1つとなったフィリピン。日人50万人余りが死亡、100万人を超すフィリピン人が犠牲になったと言われています。 当時22歳だった小野田寛郎少尉は戦争が終わったことを信じず、3人の仲間とともに、フィリピンのジ

    小野田さん帰国 42年後の真実|NHK NEWS WEB
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