ガロの編集長だった長井勝一のウィキペディア日本語版項目で《南京大虐殺否定論を、1990年代初頭から展開していた》とある。出典は《潮(潮出版社)2000年11月号 p.286~291》となっている。本日、国会図書館で調べてきましたが… https://t.co/y3WWAcayC3
y ( ● ω ● ) k @ykcavecanem トレンドに「ルイ17世」。何かと思ったら日本語のウィキペディアで、どうやら彼がうけた(とされる)虐待についての記述が加筆されたようなんだけど、ソースがおそらくきちんと史料とか使ってなさそうな本だなと思ったら何かやっぱりうさんくさい。とりま同じくあやしい英語のウィキペディアみたら 2018-03-21 19:34:53 y ( ● ω ● ) k @ykcavecanem 彼の虐待についての記述は実は裏付けがなくて王政復古期に盛られたものだと書いてあった。ウィキペディアの記述が恐ろしいと騒ぎになってるけど、前時代の歴史が改ざんされることとか、このトレンド見に行ったらだから左派とか革命はダメ、みたいな単純なものとかけっこうあったこととか、何だかなと… 2018-03-21 19:38:30
海堡(かいほう、かいほ)は、海上に人工的に造成した島に砲台を配置した、洋上にある要塞の一つである。日本では東京湾に明治と大正に建設された複数の海堡が存在している。 第一海堡、第二海堡は千葉県富津市、第三海堡は神奈川県横須賀市に属する。 日本の海堡[編集] 全ての座標を示した地図 - OSM 日本は明治から大正にかけて、大日本帝国陸軍大将の山縣有朋が、大日本帝国の要塞化を主張。東京湾には千葉県の富津岬沖から、神奈川県の観音崎沖側にかけて首都防衛のために3か所の人工島が造成された。 海堡の完成後は、陸軍兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて、東京湾口に円弧状に存在する首都防衛ラインの一環として運用された[1]。しかし第二海堡と第三海堡は、1923年(大正12年)9月1日の関東大地震により被災し、その年のうちに廃止・除籍された。第一海堡はその後も使用され、東京湾要塞の一部として第二次世
曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに、旧字体:瀧澤 興邦󠄂 )、後に解(とく)に改めた。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]。 名前について[編集] 幼名は春蔵のち倉蔵(くらぞう)、通称は左七郎(さしちろう)、瑣吉(さきち)。号は、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの別号を持った。多数の号は用途によって厳格に使い分けている[注釈 1]。「曲亭馬琴」は、戯作に用いる戯号である[注釈 2]。 滝沢馬琴(たきざわばき
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