小田嶋隆の気の毒な晩年って、大した学問もないけど偶々経歴的に自信を持って書ける領域があったからそこを取っ掛かりに面白い文章を書く小才の持ち主がそこそこ生計を維持できて喰っていけるロールモデルが崩壊したという話で、何も楽しい話ではないな。
みんな政治でバカになるのだろうか 2021.10.15 小田嶋 隆 (略)… さて、めんどうくさいインターネットに生半可な気持ちで関わっていると、思わぬトラブルを引き起こしてしまう。 今回は、『さて、めんどうくさいインターネットに生半可な気持ちで関わっていると、思わぬトラブルを引き起こしてしまう。 今回は『みんな政治でバカになる』という書籍に関連して私が発信したいくつかのツイートが炎上した。 自分が炎上を招く書き方をしていることは承知していたのだが、毎度のことながら、タイピングの勢いを自制することはかなわなかった。この点は反省している。各方面に失礼な言辞を弄した責任は、ひとえに私の側にある。この場を借りておわびを申し上げておきたい…(後略) https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00138/
いささか古い話、というよりも、この話題は、いまのところまだ決着していない、交渉過程の途上にあると思っているからこそ、あえて俎上に載せる気持ちになったわけなのだが、その「話題」というのは、「旭日旗」と五輪の観客席をめぐるお話だ。 発端は、韓国国会の文化体育観光委員会が、8月29日、国際オリンピック委員会(IOC)や東京五輪・パラリンピック組織委員会などに五輪会場内への旭日旗の持ち込み禁止を求める決議を採択したことだった。決議では旭日旗をあしらった道具の持ち込みや応援は「帝国主義に侵略された国家の苦痛の記憶を刺激する」と指摘し、五輪の理念に合わないと訴えた。 この記事中にある、韓国側からの旭日旗持ち込み禁止の申し入れと決議に対して、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は3日、「旭日旗は日本国内で広く使用されており、旗の掲示そのものが政治的宣伝とはならないと考えており、持ち込み禁止品とす
新潟県の地方紙「新潟日報」上越支社の報道部長が、ツイッターに「闇のキャンディーズ」という名前で、新潟水俣病3次訴訟の原告側弁護団長の弁護士を中傷する書き込みをしていた事件が話題になっている。 はじめのうちは、よくあるネット上の炎上騒ぎの延長に見えた。それが、全国紙の記事になり、NHKをはじめとする地上波のテレビ局がニュース枠で伝える事態となって、現在では全国レベルのニュースに化けている。 「新潟日報」が自ら報じた続報によれば、新潟日報社は、同社の報道部長(53)がツイッター上で新潟市の弁護士を中傷する書き込みをしたとして、10月25日付けで同社上越支社報道部長の職を解き、経営管理本部付けとする人事を決めた。さらに過去の書き込みなどについても調べた上、一両日中にも社としての対応を決定し、公表する意向だという(こちら)。 事件の外形だけを見ると、これは、ある新聞社の社員が引き起こした暴言事件に
友だちリクエストの返事が来ない午後 作者: 小田嶋隆出版社/メーカー: 太田出版発売日: 2015/04/28メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログ (6件) を見る 小田嶋隆は、かつて別冊宝島なんかでもよく書いてたことからもわかる通り、ちょっとひねくれた偏狭な視点をもって極論の放言でウケを取りつつ、たまにそのひねた偏狭な視点が、世間的に声の大きい議論の歪みや盲点をうまく突くことがあるので重宝されていたライターではある。その点で、かれは内田樹と同じ種類の物書きだ。内田も、街場とかおじさんとか、本来はあまりシャープな視点を持っていないと思われている立場が、逆説的に鋭いつっこみを入れられるというのを売りにして出てきた。 この手の物書きは、自分がひねた視点のマイナーな存在であり、基本的には底の浅い放言をしているという立場をわきまえていればおもしろい。道化みたいなもんですな。でも、
東日本大震災から数えて2回目の3月11日が近づいている。 被災地は3年目の春を迎えることになる。はやいものだ。 今回は、あの日から丸二年が経過しつつあることを踏まえて、震災および原発事故のその後について私が現時点で感じているところを書こうと思っている。 ちょうど一年ほど前(2012年3月22日)の当欄で、「レッテルとしてのフクシマ」というタイトルの原稿を書いた。 反響は、半ば予想した通りだったが、残りの半分は想定外だった。 つまり、ある程度荒れることは予想の範囲内だったのだが、荒れ方について私が抱いていた予断は、大いに甘かったということだ(togetter 小田嶋隆 tako_ashi 氏の「レッテルとしてのフクシマ」への反響)。 反発には、おおまかに言って二つの方向性があった。 ひとつは福島について起こっている議論を語るにあたって、私が「南京事件」を持ち出したことに対しての拒否反応だ。
この春から、週に2回ほど電車に乗って出かける先ができて、そういう境遇になってみると、あらためて気づかされることがいくつかある。 私はこの20年ほど、定期的に通う先を持っていなかった。 だから、混んだ電車に乗ること自体、かなり久しぶりの経験だったのだが、驚いているのは、夕方の通勤車両の中の乗客が、誰も彼も、かつてよりひどくギスギスして見えることだ。スマホや携帯電話を操作している者が約半数。残りは、中空を睨んでいるか、でなければ、かたく目を閉じている。 なんだか暴動前夜みたいな雰囲気だ。 そんなふうに感じるのは、私が浮世離れしているせいなのだろうか。あるいは、私が若者だった頃の通勤客と比べて、21世紀の乗客はより巨大なストレスに晒されているということなのか? この点について話をすると、出勤族の答えはニベも無い。 「何時頃の何線に乗ってるんだ?」 「月曜と水曜の昼過ぎの地下鉄南北線。で、帰りは時
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南京事件否定論、従軍慰安婦否定論、ホロコースト否定論といった歴史修正主義は歴史学的事実を嘘扱いする嘘です。 歴史修正主義とそれに対する史実派のカウンターアクションである反歴史修正主義との対立は思想の左右の問題ではありません。それは歴史学的事実に対する正誤の問題であり、史実に対する誠実さの問題であり、それを思想の左右の問題と認識する方に問題があるというものです。 この文ではそのように歴史修正主義と反歴史修正主義の対立を思想の左右の問題と認識しコメント欄などで「自分は右でも左でもありませんが、○○は××だと思います」というような種類の発言を行う人のことを括弧付きで「右でも左でもない人」とします。 ここで仮に「右でも左でもない人」の認識のように歴史修正主義と反歴史修正主義を思想で分けてみましょう。 反歴史修正主義であるところの史実派には思想的には保守からリベラルまで様々な人がいます。 それに対し
東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma 福島/放射能をめぐる議論が、単に「厄介」で避けられるものになり始めているという指摘は、まさにそのとおり。RT @yanabo: 小田嶋隆さんが、穏やかに、しかし鋭くつきつけるフクシマというレッテルを貼付けた私たちの罪。必読 http://t.co/xWCR7Mis 2012-03-23 09:49:08 東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma ぼく自身、最近ある若いひと(そのひとの仕事自体は注目している)が「岡山から東はもう子どもは住めないと思うんですよ」と言ったとき、なにも言わずビールを飲んでスルーした。もうこういうのは疲れたな、としか思わなかった。反論する気にもならなかった。そういう状況になっている。 2012-03-23 09:51:15
月末に福島を訪問しようと思っている。 この話をすると 「え?」 という反応が返ってくる。 「大丈夫なの?」 大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地の食べ物を食べたからといって何が危険だというのだ? もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、本気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。 この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。 「えっ、フクシマ?」 「フクシマ? ヤバくないのか?」 「取材だよな?」 「どうしてよりによってフクシマに?」 「おお、チャレンジャーだな」 悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」とい
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