近ごろ、そのことばを聞いてもすっとは分からないことが多くなってきた。そのたいていの場合は、ことばのもとの意味を勝手に変えてゆくからである。 例えば、「奨学金」がそれだ。これは、学力は優秀だが、家の事情で進学できない子に対して、その学力を惜しみ、大きく言えば、社会的損失になるから、という理由で、公的援助をして進学を可能にしようという趣旨のものである。 手っ取り早く言えば、貧乏だが学力優秀でしっかりしている子を社会が育てようということだ。 ところが、いつのまにか、学力優秀とか、しっかりしているとか、そういう条件がどこかに消し飛んでしまって、要は〈進学金〉という意味にとってしまっており、果ては〈全員〉という気分がちらついている。 「観閲式」というのも珍妙なことばである。いろいろな観閲式があり、それらが報道され、〈エライ人が観閲しているところ〉が写真に出ている。 しかし、欧米のことはいざ知らず、東