都営バスの色といえば、誰もがグリーンを基調としたカラーリングを思い浮かべることでしょう。いまやすっかり定着したこの車体ですが、そこには長い歴史と多くの人々の想いが込められています。歴代の塗色から、あの岡本太郎氏が手がけた"幻のデザイン"まで。都営バスの車体カラーの変遷をご紹介します。 1949〜59(昭和24〜34)年 基色:薄緑 一部色:灰色(側板)、濃緑(スカート部)、オレンジ・白(帯) 1959〜68(昭和34〜43)年 基色:クリーム 一部色:マルーン 1968〜81(昭和43〜56)年 基色:アイボリー 一部色:ブルー 1981〜82(昭和56〜57)年 基色:イエロー 一部色:マルーン 終戦直後、焼け野原から復興を遂げ始めた東京の街で、1949(昭和24)年に薄緑×濃緑色のグリーンを基調としたボンネットタイプの都営バスが走り始めます。活気と混乱のただ中にあって、安定した色彩感覚
酷道マニアとして知られる鹿取茂雄氏のもとに寄せられた“森の中に、ポツンとロータリー道路がある。しかも、ロータリーが3つも連続している”というナゾの情報。 本来であれば、必要のない場所に3つも連続して造られたロータリー。これはいったい、誰がどんな目的で……? 前編では現地を訪れ、地元住民に聞き込みを行うも、その真相は明らかにならなかった。 しかし、その後も諦めず“不思議道”が作られた理由を追っていくと意外な事実が判明した……。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 日本古代の道路が整然とした直線だったことは、考古学の発掘が進むまで誰も「まさか」と思ってたそうで、比べて見ると江戸時代の道路、酷い遠回りとか曲がりくねっててリアルな現実が噴き出してるんですよね。古代道路は整然さの維持にコストがかかるのでしだいに消えていきました。 2021-11-20 03:17:05 巫俊(ふしゅん) @fushunia 都から最短経路で進む道路が各国・各郡を貫いてて、それが「東海道」とか「山陽道」だった訳です。律令制度を中国から導入した頃に、道路の作り方も導入したので、そのような厳格なものになった訳です。それが中央集権システムだった訳ですね(機能不全になってくけど)。 2021-11-20 03:20:33
毎年8月10日は国土交通省によって「道の日」と定められ、月内に広報活動などが行われます。なぜこの日が道の日となったのでしょうか。 鉄道が先に発達した日本の交通網 毎年8月10日は国土交通省によって「道の日」と定められ、8月は「道路ふれあい月間」として国や全国の自治体を中心に、道路にちなむイベントや広報活動が行われています。国民の祝日ではないため、普段の生活であまり意識する機会はありませんが、何を記念したものなのでしょうか。 品川駅前を通る国道15号、別名京浜国道(写真:photolibrary)。 由来となった日は1920(大正9)年8月10日。今から101年前のことです。この日、わが国初の近代的な道路整備計画「第一次道路改良計画」が策定されました。 この日以前の道路とされるものは、自動車の存在を前提としないものでした。1876(明治9)年に日本で初めて国道や県道が制定されて以降も、鉄道の
主な鯖街道(赤ライン) 若狭街道熊川宿 鴨川に架かる出町橋西側のたもとには「鯖街道口 従是洛中」と書かれた石碑がある。 福井県小浜市の鯖街道起点プレート 福井県小浜市のいづみ町アーケード入口 鯖街道(さばかいどう)は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の福井県嶺南地方に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。 主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、最も割合が高かったのが鯖であったことから、鯖街道と呼ばれるようになった[1][2]。 概要[編集] 概説[編集] 狭義では、現在の福井県小浜市から三方上中郡若狭町三宅を経由して、京都府京都市左京区の出町商店街[3]に至る若狭街道(わかさかいどう)を指し[2][4][5][6]、おおむね国道27号や国道367号に相当する[7][8]。ただし、往時の若狭街道は現在の国道367号ではなく大見尾根を経由する山道であったほか、それぞれの国道で
千葉県の県境は、ほとんどが川の上にあるため、乗り物に乗ってたどることがかんたんにできる。 前回、浦安(東京ディスニーランド)から、江戸川に沿って北上しつつ、都県境未定地の河原番外地、流山橋までたどった。→「ディズニーランドの目の前は境界未定地?」 今回は、流山から野田、関宿まで行きたい。 運河には本当に運河があった 千葉の県境をたどって流山までやってきた。これから千葉県の北端、関宿を目指して北上しなければいけない。 運河のちょっと下あたりが流山です 関宿に行くまでにいくつか見ておきたいものがあるが、まずは利根運河といわれる運河をみておきたい。 東武野田線の駅に、運河駅という駅があるのは知識としてはしっているしかし、運河が実際にどんなものなのか、この目でみておきたいのだ。 荒涼とした農道を進む 江戸川と運河がつながっている場所までやってきた。 川以外はなにもない 江戸川と利根運河が丁字でつな
東京ニュース No.125 「環状七号線」 昭和36年(1961年) 企画:東京都、制作:東京都映画協会 映像提供:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館 この映像は、昭和36年(1961年)に制作された「都民ニュースNo.125」のフィルムをデジタル化したものです。 東京動画に掲載するにあたり、権利関係等に配慮し、編集や加工処理等を行っている部分があります。 音声については、加工処理の影響でノイズが生じている部分があるほか、BGMについては、オリジナルのものではなく、YouTube オーディオライブラリの音源に変更しています。 字幕については、オリジナルのナレーション等をもとに作成していますが、異なる部分もあります。なお、ナレーション及び字幕のなかに、現代では不適切と思われる表現が含まれていることがあります。 これらの点について、あらかじめご了承いただきますよう、お願いい
卑屈な奈良県民bot🦌 @nntnarabot 奈良時代の高級官僚をことごとく日本海に沈めまくった生還率25パーセントのリアルエスポワールこと遣唐使船の原寸大レプリカが平城宮跡で展示されてるぞ!みんなぜひ見に行こう! pic.twitter.com/LM2ztiYnaI 2019-03-05 19:56:21 アプロ @rUyaCVtIiRxgC9M 昔は、 「遣唐使船がクソザコナメクジだから難破しまくった」 という定説だったけど、最近だと ・遣唐使船の無理な大型化と過剰積載 ・唐の年賀行事に合わせる関係で風向きが悪い6~7月に出港 ・唐・新羅の関係悪化で半島沿岸ルートが使えず、やむなく五島列島経由で東シナ海を横断 が難破が(続く twitter.com/nntnarabot/sta… 2019-03-07 17:50:19
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く