2023年08月20日06:00 カテゴリ秋葉原 か行施設 「外神田の大時計 京屋時計店本店時計塔」 【時計塔情報】 時計塔名:京屋時計店本店時計塔 場所:神田旅籠町1-13(現・外神田3-12-8の辺り) 設置年:1875年(明治8年)または1876年(明治9年)頃 解体年:1913年-1914年(大正2年-大正3年)頃 出典『明治・東京時計塔記』(1958) 【秋葉原と時計】電気店における時計はかつて主要商品であった。白物家電を始めとしてカメラと時計、特に腕時計は店内の目立つ場所に置かれ、また1970年代から1980年代の広告やテレビCMでは需要の高い腕時計をセール商品として積極的に売り出していた。電気街である秋葉原でも時計は多くの電気店で取り扱いをしており、中には自社ビルを建設する際、ミナミ無線(現ドン・キホーテ秋葉原店の建物)のからくり時計、T-ZONE本店(現TSUKUMO eX
【教えて!HRDさん#2】ジャンク屋の什器は人知れず流転しているという話 2023.05.27 00:00 更新 2023.05.27 取材 決して広くはないお店に、同人ハードやレトロゲームなどがあふれるカオス空間。ここ家電のケンちゃんにて、“家電のHRDちゃん”こと店長の原田さんにディープなアレコレを語ってもらう「教えて!HRDさん」。今回は、何気なくアキバのジャンク屋で見かけている什器が、実は色んな遍歴を持っているかも、というお話。 前は三月兎、その前はあきば○ぐ?受け継がれていく什器 高めのモノを入れておくガラスケースのような什器って、買おうと思うとそれなりに値が張るんですよ。大手の量販店とかキレイなお店なら都度新調するんでしょうが、アキバに点在するジャンク屋のような商売だとそうはいかない。どこかが店を閉める時にもらってきて、それがまた受け継がれて・・・てな話が珍しくないんです。
現在の一般的な“アキバ”のイメージが決定的になったのは、1990年代の終わりから2000年代にかけてです。少なくとも1980年代までの秋葉原(千代田区)といえば「家電製品を安価で買える街」であり、「電子部品がなんでもそろう街」でした。 そんな時代の秋葉原に、ごく短期間、美術館が存在していたことがありました。 それは、アニメやゲームなどの関連作品を扱っていた……という訳ではなく、シュールレアリスムを代表するスペインの芸術家、サルバドール・ダリの作品を常設展示する美術館だったのです。付け加えると、その美術館は“AKB48と少しだけつながりがある”というフックもありました。 にぎやかな電気街と静かな美術館というのはミスマッチな感じもしますが、果たしていかなる施設だったのでしょうか。 1980年代の秋葉原には、駅前(電気街口)や中央通り沿いを中心に、家電量販店がズラリと並んでいました。具体名を挙げ
ラジオ、家電、パソコン、ゲーム、フィギュア、時代の流行とともにその姿を変え続ける、秋葉原。家電、パソコンの街からポップカルチャーの発信地へ。そんな秋葉原がどうして今の秋葉原になったのか、その成立の歴史をたどってみました。 【訂正のご案内】 (ご指摘ありがとうございますm_ _m) 0:40 「家事」→「火事」 2:07 1980→1890年 13:05「JR総武線」→「中央線」 神田青果市場が有った場所 誤:須田町 正:多町 OJMのツイッター、フォローよろしくお願いします https://twitter.com/OldJapaneseMem1 秋葉原民の声を集めてみました!(サブチャンネル) https://youtu.be/KC725WIHqxg #秋葉原#昔#懐かしい
万世湯 銭湯遺跡探訪(25) かつての電気街、いまはサブカルチャー関連の店がひしめく街・秋葉原にあった銭湯。千代田区外神田1-8-8。跡地の「岡嶋ビル」には「コトブキヤ秋葉原館」が入居し、アニメやゲームのフィギュアなどを販売している。1980年名簿には万世湯が掲載されており、1979年11月14日撮影の航空写真(CKT794-C10B-16)でも銭湯らしき屋根を確認できるが、1984年10月31日撮影の航空写真(CKT843-C10-33)では銭湯らしき建物は消えているので、1980年代前半に廃業し、現在のビルに建て替えられたらしい。読売新聞1973年9月9日朝刊都民版21頁「おフロ屋さん、やめないで」に外観(入口)の写真が掲載されている。 2018年10月27日訪。
秋葉原駅の西400m, 昌平橋交差点に面して「ヤマギワ リビナ本館」ビルが建っている。 この建物の北西隅に接して 黒い石碑が建つ。 伊勢丹(デパート)は, 明治19年(1886) この地に“伊勢屋丹治呉服店”として創業。 関東大震災後に 百貨店形式の店となり, 昭和5年(1930) に株式会社伊勢丹となった。昭和8年(1933), 新宿に移転し現在に至る。 伊勢丹 http://isetan.mistore.jp/撤去済ヤマギワリビナ本館は,2010年8月に閉館し,翌年には発祥碑も撤去された。報道によると,碑は伊勢丹創業家である小菅家に引き取られて保管されているとのこと。(日経新聞「東京ふしぎ探検隊(予備.zip)」2012/5/2 による) 写真
5fret(ごふれっと) @5fret 約150年前の、神田川の写真。オーストリアで見つかったんだって。奥に見える木造家屋が川沿いに密集しているのが現在の秋葉原。 pic.twitter.com/2lxOYAcFVL 2019-03-03 12:05:53
現在の秋葉原電気街のあたりは、江戸時代は下級武士の居住地域であった。「火事とケンカは江戸の華」と言われたように、当時は火事が多く、この秋葉原かいわいも江戸時代を通じて火災に悩まされていた。 1869(明治2年)の相生(あいおい)町の大火を機会に、当時の明治政府下の東京府は9000坪(約3万平方メートル)の火除地(ひよけち)を当地に設置し、翌1870(明治3年)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現(あきばだいごんげん)を勧請(かんじょう)し、鎮火神社としてまつった。 当初は鎮火原と呼ばれたが、鎮火神社が秋葉神社(あきばじんじゃ:現在は台東区松が谷に移転)と改められると、「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と呼ばれるようになった。 現在、「あきば」と略されるのは、このあたりが語源となっている。 1890年(明治23年)に上野から鉄道が延長されて、新しく当地に駅が開設されることにな
秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。 秋葉権現の諸説[編集] 遠州の秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市) 越後栃尾の秋葉三尺坊大権現(新潟県長岡市) 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説あり、吉田俊英はそれらを整理し下記の3つに分類した。[1] 遠州(遠江、現在の静岡県)秋葉山の古来からの土着神、山岳神 同じく秋葉山に伝説を残す三尺坊という修験者の神格化(秋葉三尺坊権現) 1と2の両者が渾然一
さて、今回はちょっと趣向を変えて「戦後の秋葉原」を知る人たちに色々と呑みの最中に思い出話と共に聞いた話を、国土地理院のデータなどを参考に現在との状況を整理してみたいと思う。戦後の秋葉原を伺うことができる最後の時期に差し掛かっている現在、どこまで追えるか分からないが人の記憶と共に思い気の向くままに探訪してみよう。 さて、第1回目となる舞台は秋葉原駅だ。昔は駅近くに青果市場があり、貨物のターミナル駅としてその存在を示していた秋葉原駅。秋葉原駅近くの秋葉原公園にある橋の名残(?)が気になっていた。 時は巡り、たまたま手に入れた「地図物語 あの日の神田・神保町(著者:佐藤 洋一/出版:武揚堂/ISBN-13:978-4904218082)」をパラパラと見ていると古地図が付いている。気になる秋葉原公園付近を見ると水路が画かれているではないか。 上記写真が問題の部分だ。昭和通りの和泉橋横に水路が描かれ
みなさん、おはようございます。 本日からGW本番という方も多いのではないでしょうか? アキバガイドもGW中の2日・4日・5日の3日間、中央通り富士そば前あたりで 秋葉マップの手配りをおこないます。 近隣のみなさま宜しくお願いします。 ところで今回の秋葉マップは、サイズがいつもより大きいのですが、 内面には”秋葉原の歴史年表”を記しています。 アキバのことなら詳しいから地図がなくても大丈夫!なんて方も、 手にとってみてください。歴史年表を見るときっと「懐かしいなぁ〜」とか、 「そういえば、そうだった!」なんて再発見があると思います。 例えば、 昭和48年(1973) 秋葉原歩行者天国スタート 昭和50年(1975) 第1回コミケ 昭和54年(1979) ガンダム放送開始 昭和55年(1980) 第1回秋葉原電気街まつり開催! 平成19年(2007) AKB48紅白初出場 などなど アキバに詳
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