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ブックマーク / blog.talktank.net (21)

  • 同性婚とインセストから現代の結婚に求められるものを考える

    同性婚の法制化を求める声が大きくなっている。それに対して反発が広がり、「そもそも結婚は生殖(あるいは出産)のためにあるのであり、出産しないカップルに結婚による法的利益を提供する必要はない」とか「同性婚を許容するなら兄弟姉妹の結婚も許されるべきではないか」といった議論も飛び出した。後者に関しては特に、牽強付会と言っても構わないと思われるが、なぜそのような錯誤が生じるのかも含めて、もう一度「婚姻」と「再生産(子どもをつくること)」の関係を考え直してもいいかもしれない。稿で述べる論点をまとめるなら、以下のようになる。この三つに違和感を感じない方は、最終節だけ読んでいただいても構わないと思う。そうでない方は、少し長くなるが全文にお付き合いいただければ幸いである。 (1)婚姻は生殖のためにあるのではないし、人類のインセスト・タブーは生物学的(優生学的)根拠に基づくものではない (2)日文化のイン

    同性婚とインセストから現代の結婚に求められるものを考える
  • 野党が示すべき労働・福祉政策の中での「ポスト核家族」ジェンダーロール

    ポリティカル・ライターの平河エリ氏と衆議院議員米山隆一氏の間で、次のようなやりとりがあったようである。 ジェンダーや気候変動などの左派政策は共産党に任せ、野党第一党はより改革志向の政策を提案するというような枠組みにシフトしていくのだろう(選挙協力は維持しつつ)。 今回ですら協力が難しかったものが、更に政策が離れて当にうまくいくのかと言われると、よくわからない。 — 平河エリ / Eri Hirakawa『25歳からの国会』(現代書館) (@EriHirakawa) November 1, 2021 私はジェンダー平等や気候変動も出し続けていいと思います。但し出す順番としては、①経済②福祉③ジェンダー・気候変動だと思います。③を1番に打ち出すと、「余裕のある人の趣味」に見られてしまうので。又①②についても「人に優しい経済、人に優しい福祉に改革する」という打ち出しだと思います。 https:

  • 災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める

    政府は新型コロナ感染症下で、 Go to などの経済対策を続けるようです。しかし、来はこれは個々人に対する直接保証であるべきで、そうでなければ給付は偏り、救済される人もいる一方で、追い込まれる人を十分に救い上げられないだろう。我々は政府に対してこういった措置を強く求めていくべきである…と言うブログを春に書いたつもりになっていたのであるが、どうも公開してなかったらしい。これから冬にかけて、再び感染の拡大が予想されるので、とりあえず公開しておく(情勢が変わっているところはちょっと文言を直しましたが、基的に春に書いたときのままです)。 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の被害が世界中に拡大している。その中で災害社会主義(Disaster Socialism)という言葉を海外の論評などで見かけるようになった。この言葉がどこまで適当かはわからないが、「再分配」という言葉について、人類は

    災害社会主義としてのポスト・コロナ社会を求める
  • 「大学の軍事研究」は何が問題か

    予定より長くなったので、最初にアブストラクトを入れておきます。 ・フンボルト理念やマートン規範は、主に国家の事情(軍事)と市場の理論の二つから脅かされる。この二つの力の介入を大学が回避することは不可能だが、一定の緊張関係は求められる。 ・産学連携より軍学の方がより危険な点があるとすれば「機密」という問題である。第二次世界大戦の敗戦は、この問題に折り合いをつけなければいけないというプレッシャーから、日の大学を解放したという面はある。 ・日はそのかわりに、学術界主導の基礎研究体制の導入に成功した。これを担ったのが日学術会議であった。ただし、これはその時々の政権にとっては必ずしも歓迎すべきことではなく、徐々にこの権限は剥奪されていった(しかし、これは合法的に行われたこと、また学者の側の積極的な抵抗は見られなかったことは認めねばならない)。 ・一方、戦間期の軍事動員体制を引きずった戦勝国にお

    「大学の軍事研究」は何が問題か
  • (包摂的)ポピュリズムが成功する可能性はあるか?

    1. なぜ「マジョリティのヘテロ男性」は差別され得ないのか? 文化人類学やカルチュラル・スタディーズは"差別というのは、基的に「コミュニティの境界確定」のためにある"と論じてきた。 自然界は通常、曖昧なものである。 例えば、大人と子どもを考えてみよう。 村の秩序は、たとえば大人になれば村の方針を決める寄合に参加できる、酒が飲める、結婚ができる、と行った「権利」を「大人」に付与するであろう。 一方、昆虫の類ではない人類に、大人と子どもの境界線が自然に与えられるわけではない。 大人であるかどうかは、年齢であったり、慎重であったり、第二次性徴があったかどうかだったり、あるいは「戦に出る」能力と行ったなんらかの能力であったりで決められるだろう。 現代社会であれば、法律は通常年齢を大人と子どもの境目を決める手段として選び、特に誰が何かを宣言しなくても、法律は全ての個人を粛々と大人に分類していくだろ

    (包摂的)ポピュリズムが成功する可能性はあるか?
  • なぜ人文・社会系博士を増やさないといけないと考えられたか、について

    "人文諸学の再興(と、多少はそこでっていけるはずの人々)のために"の続き、的な。。 もう一つ、博士号取得者を増やすという直接の動機がバイオを中心とした「実用性の 高い」分野での国際競争力を増す、ということであったのは間違いないが、決して文系諸分野では増やさなくていいということだったわけではない。 現在、社会は高度に複雑化しており、IT化などに応じて発生する様々な社会問題もある。もちろん、気候変動などの環境問題は深刻であり、これらは一義的には「科学」の問題だが、対応するためには法律や倫理、経済の問題を考慮しなくていいわけではない。要するに、様々な知識が専門化してきているわけである。 そういった中で、例えば貧困や環境に関する国家間折衝が気候変動枠組条約や生物多様性保護条約の締約国会議という形で行われ、大々的に報道される。また、貧困や格差の問題はG20やWTO閣僚級会議の際に世界中からNGO

    なぜ人文・社会系博士を増やさないといけないと考えられたか、について
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2019/05/15
    "所属組織ではなく「問題(Issue)」に置いて一貫したキャリアを構築し、国際的な学術的・専門的コミュニケーションに参画している「学位保持者」を増やさなければいけない"
  • 人文諸学の再興(と、多少はそこで食っていけるはずの人々)のために

    学歴ワーキングプアーという言葉はすっかり定着したが、そういった状況にある若手人文系研究者の自殺事件が続いたことにより注目されている。先日、朝日新聞に掲載された記事には、友人であり、一般社団法人カセイケンでご一緒している榎木英介氏のコメントが掲載されていた("「博士漂流」問題、職に対して人募集の仕組みを" ※こちらはデジタル版のみの内容も含んでいる)。榎木氏は日における研究者のキャリアパス問題で長年活動を続けてきており、近年朝日新聞のような「主要メディア」にも意見を求められるようになったことは、私としても大変ありがたいと思っている。ただ、一方では、朝日新聞でのコメントも基的に「理工系(特に90年代後半から大量生産されるようになったバイオ系)の研究者」の視点かなと思う面はあり、そこで多少違和感を感じる部分も否定できない。ここで、人文・社会系の研究者にとってのキャリア問題について、少し別の

    人文諸学の再興(と、多少はそこで食っていけるはずの人々)のために
  • コカイン中毒は本当に社会問題の本質なのか?: 視点の多様性のために、カール・ハート博士の議論から考える

    コカイン中毒は当に社会問題の質なのか?: 視点の多様性のために、カール・ハート博士の議論から考える 電気グルーヴのピーエル瀧氏がコカインを使用していたという嫌疑で逮捕された。報道によれば、瀧氏は何十年もコカインを利用し続けていたと供述しているという。一方、瀧氏の仕事ぶりや社会生活は総じて評判の良いものであり、一般的にイメージされる「薬物中毒」患者の姿とは大きく異なっているだろう。しかし、実際はマリファナはもちろん、ハードドラッグを利用していても万人が深刻な「中毒状況」に陥るわけではない(一方で、合法である酒でも、社会生活に支障のある中毒症状を呈することはあるわけである)。この問題に関しては、五年以上前の Democracy Now で、コロンビア大学のカール・ハートのインタビューが放送され、興味深い内容だったので、古い番組ではあるが、ここに紹介してみたい。 “Drugs Aren’t

    コカイン中毒は本当に社会問題の本質なのか?: 視点の多様性のために、カール・ハート博士の議論から考える
  • ウゴ・チャベス その革命と失敗|天使もトラバるを恐れるところ

    先の「"脱成長"議論のためのメモ」で「ベネズエラ経済の失敗」という言い方をしたので、そのあたりについて自分の見解を整理しておく必要があるかな、とおもいまして、記事を書いておきます(いつものことであるが、さくっと書くつもりが、長くなった…)。 1. 南米主要国の政治潮流 現在、南米主要国の政治は三つの潮流に分かれている。 第一のグループは、南部にあるチリ、アルゼンチン、ウルグアイにある、中道左派が主導する政権が存在する地域である。 かつて「アメリカ合衆国の裏庭」と呼ばれ、親米右派ががっちりと支配していたこの地域でも、21世紀に入って次々と左派政権が誕生したが、この中で第一グループの国々は、比較的所得や識字率が高く、また文化的均質性が高い(これは、この地域の先住民は多くが虐殺されて消滅した、ということでもある)。 このうちアルゼンチンとチリは選挙による中道右派と左派の政権交代が見られるようにな

    ウゴ・チャベス その革命と失敗|天使もトラバるを恐れるところ
  • その反緊縮とあの反緊縮は一緒ですか!?|天使もトラバるを恐れるところ

    最近「日の左派は反緊縮を唱えないからダメだ」という議論をよく聞く(例えば「なぜ日の左派で反緊縮が主流になっていないのか? - Togetterまとめ」)。曰く、「欧米では反緊縮は左派の政策」であるらしい。これは果たして事実であろうか? 率直にいうと、わが国で「反緊縮」を唱える人々のいう「反緊縮」(以下、反緊縮(日)とでも呼称しよう)と、「欧米では」と言われる時の欧米左派のいう「反緊縮」(同様に反緊縮(欧)と呼称しよう)は、もちろんかぶる部分はあるが、質的には別物である。 もちろん、何にどうラベルを貼るかと行ったこと自体が問題な訳ではない。 どう言った思想にどうラベリングするかは各人の自由である。 しかし、内実が異なるのに、ラベルが一緒だというだけで中身が一緒であるかのように議論することは好ましくない。 具体例ということで、反緊縮民衆会議についてみてみたい。 これは、2013年に結成さ

    その反緊縮とあの反緊縮は一緒ですか!?|天使もトラバるを恐れるところ
  • 太地町のイルカ追い込み漁を水族館が利用することの是非について

    某所にコメントをつけたので、備忘録的に… この問題を、追い込み漁の倫理性全体の話として捉えると、話が複雑になるのではないでしょうか。 まず、最初のステップとして、「べる」という目的を外して「水族館展示で追い込み漁で捕獲したイルカを利用することが妥当か」ということに絞って議論するのがいいように思います。 で、「世界動物園水族館戦略」(日語版、PDF)というのがあります。 このキャッチフレーズとして「メナジェリーから保全センターへ」とありまして、メナジェリーというのは、「見世物用の動物園」ぐらいの意味です。 つまり、野生動物の入手が制限されていき、また野生動物そのものが種類も絶対数も減らしている中で、動物園・水族館の役割として「交配による種の保存」という意味が非常に大きくなっている、ということです。 このなかで、コンスタントに野生の個体を捕獲し、補充しているイルカというのは、ちょっと特殊な

  • 「脱成長」議論のためのメモ|天使もトラバるを恐れるところ

    ではあまりアカデミックに脱成長を研究している論者がいない一方で、反脱成長論のほうが声が大きい印象がある。 ただ、この双方は大概の場合、論点がかみ合っていない。 要するに「成長」支持派はGDPが持続的に増大していくことが大事だと言っていて、それは資主義というものが「成長産業に資を投下して、投下した資が増えて戻ってくる」ことを期待する投資家が投資先を探す、というモデルで作られているから、そこが機能しないと資主義社会そのものが法界するじゃないか、という危惧を抱いているのであろう。 (そもそも我が国で「資家」がリアル・エステートを担保に取らなくても「成長産業を探して投資する」なんていう資家としての役割を放棄しているからの低成長なんじゃないのか、というツッコミはあり得ると思うが、ここではグローバルな資主義社会の問題が論じられているということで、置いておく) 一方、脱成長派は主に「環

    「脱成長」議論のためのメモ|天使もトラバるを恐れるところ
  • ポリティカル・コレクトネスと文化相対主義|天使もトラバるを恐れるところ

    であれば、これは要するに「文明社会が想定する正義と、文化的な多様性はコンフリクトを起こすことがあるのではないか?」という問いであり、これならば広く知られ、かつ熟慮を要する問いである。 まず、前提として「ポリティカル・コレクトネス」は一般に、右派が左派を揶揄するときの言葉であるということを確認したい。 「コレクトネス」という英単語は、一般に「唯一の正解があるような問題の正解」であるときに使う。 例えば、ヴェトナム戦争の終結は何年でしょう、という歴史のテストがあったとすれば、コレクトな正解は1975年というものであろう。 一方で、ヴェトナム戦争に関わった人々がそれぞれに感じていた戦争の位置付けや大義といった問題は、「コレクトネス」ではなく、英単語としてはフェアネスやジャスティスの問題である。 ジャスティス(正義の女神)がしばしば天秤を持った姿で表されるように、これらは「唯一の正解がある」という

    ポリティカル・コレクトネスと文化相対主義|天使もトラバるを恐れるところ
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2016/12/14
    人類学の(反・反)相対主義は人権と必ずしも両立し得ないものじゃないんですよね
  • Google は言語ゲームを遊ぶ: 後期ヴィトゲンシュタインはいかに「役に立つ」か?|天使もトラバるを恐れるところ

    最近「役に立つ人文学」というのが論争になっている。これについては、「人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか?」という投稿で、「経済的貢献」「真善美や人間性の追求」および「カンターサイエンス、あるいは再帰的研究」の三つの可能性を示した。しかし、現実的には人文学的研究がこのどれに役に立つかというのはややこしい問題であり、研究が行われた段階でそれを決定することは難しい。これは自然科学であっても同じことなわけだが、人文学的にもそういうことが言える。事例としてコンピューターの歴史の根幹に関わる数々のノンフィクションを発表してきたジャーナリスト、スティーブン・レヴィの『グーグル ネット覇者の真実』から面白い事例を紹介しよう。 アミット・シンガルはインドのウッタル・プラデーシュ州出身で、コーネル大学で学位取得後、AT&Tベル研からGoogle に移った検索アルゴリズムの研究者であるが、彼は

    Google は言語ゲームを遊ぶ: 後期ヴィトゲンシュタインはいかに「役に立つ」か?|天使もトラバるを恐れるところ
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2016/09/08
    検索ワードからの連想に言語ゲームの概念を応用(引用部分だけだとなにをどう応用したのかよくわからないけど)。コンピュータに応用するのに前期じゃなく後期というのは確かに意外
  • ワクチン・リスクのオフサイドトラップ: なぜ反ワクチン運動が盛り上がるのか?|天使もトラバるを恐れるところ

    ※図版(βとβ’の位置関係)が間違っていたので修正し、それに合わせる形で説明の文章も修正しました。 1) どの程度のリスクを受け入れるか、ということは人によって違う。最も重要なのは、そのリスクの需要にどの程度の便益を感じるか、という問題である。死んでもいいからタバコの味が好き、ということは(社会的にそれが是認されるかは別として)個人の決断としてはありうるわけである。同様に、自分の趣味で出かけるなら冬山で遭難するリスクは受け入れられるが、業務で登らされるのは御免であるとか、あるいは業務として行うなら受け入れられるが、趣味にはしたくないとか、そういった選択はありうる。 また、一般に、(不特定多数に)強制されるリスクや誰か(一般には企業)の利益になるリスクは、自然要因のリスクよりも受け入れ難いということは見られる。同様に、自分が積極的に選択するリスクはより高いレベルまで需要される。もちろん、この

    ワクチン・リスクのオフサイドトラップ: なぜ反ワクチン運動が盛り上がるのか?|天使もトラバるを恐れるところ
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2016/04/30
    "文化人類学的に見れば、行動の原理として与えられる「物語」は、その行動の正当化の根拠ではあっても、そういう行動を選択する理由にはなっていないことも多い"
  • 「荒れる成人式」と議員定数

    今年も成人式で暴れる新成人がおり、産經新聞などがうれしそうに批判していた水戸市のケースでは以下のように報道されている(DQNというネットスラングを持ちいて報道する産経さんの方が遥かに品がないと思うが…)。 一部の新成人らがマイクを取り上げ、「おめえがあいさつしてんじゃねえ、このやろー」「なめんじゃねーよ」「みんな、よろしく~」「盛り上がっていこうぜ」などと拡声器で叫びながら、警備員の阻止を振り切ってステージに上がり、妨害行為に出た。 警備員らによって下ろされた後、古谷さんは誓いの言葉を続行し、「僕が話すことが気に入らない方もいると思います。みなさん、しっかりと成人としての自覚をもち、これから社会人としてはばたいていきましょう」と反撃。すると、ステージの下からは「てめーが代表じゃねえ、このやろー」などの罵声が飛んだ。 新成人代表の返しも中々立派だと思うが、「暴れた」側も成人式の代表権やオーナ

    「荒れる成人式」と議員定数
  • 社会包摂のための言論の自由とその限界について

    1)「言論の自由」はデモクラシーの根源である 「言論の自由」はデモクラシー(民主制)の根源であると考えらえている。というのも、第一に自分のおかれた苦境について、そのことを表明し、社会に対して改善を求めることから始まるからである。もちろん、この苦境の原因には、上位者の社会的不正やより直接的な抑圧も含まれるであろうから、言論の自由が完全に認められないことは、それが社会的問題として認識されることを阻むことになる。 フランス大革命に先立って、Cahier de doléances (カイエ・ド・ドレアンス/陳情書)が三部会によって全国から収集された。特に第三身分(平民)からは生活の不満が多く伝えられた。アントニオ・ネグリに言わせれば、これが民主制の原点である。つまり、クレーム(異議申し立て)という言葉は、日ではあまりいい意味に使われないことが多いが、弱い立場の人のドレアンス/クレームがどれだけ自

    社会包摂のための言論の自由とその限界について
  • 多元的なデモクラシーのための「敵」としてのイスラム国(1) タラル・アサドとシャンタル・ムフを参考に…

    シャルリー・エブド誌の襲撃事件とISIL/イスラム国による日人人質殺害事件と、イスラム教原理主義が絡んだ二つの事件が立て続けに起こったことで様々な議論が起きている。 これまでのところ、いくつか、十分に指摘されていないことがあるように思うので、まとめておく。 1) シャルリー・エブド誌の事件で気になったことは、タラル・アサドの紹介が、日国内はもちろんとして、海外のメディアでもあまりなかったように思うことである。 (ムスリム系の名前のジャーナリストや若手研究者のものと思われるブログなどで若干紹介されていたのは見かけた) サイードの名はかなり専門外の人々にも知られているが、アサドはおそらくさほどではないと思う一方で、どのメディアもコメントを取りに行かないということも考えずらく、ご人による意図的な沈黙なのかとも思うが、よくわからない。 ともあれ、ここでアサドの議論を振り返ることは有益であろう

  • ブタ生肉食は「考えるに良い」か?

    最近のブタ生肉禁止に関する議論を見ていると、生肉べたいという人を馬鹿だと罵る傾向があるのが気になっている。 今のところ、禁止の妥当性については異論も不満もないが、その決定が適切な調査と議論に基づいて行われたか、という点には疑問なしとしない。 確かに、疫学的知識の発展によって、それまで許されていた行為の危険性が明らかになり、それが禁止される、ということはあり得るし、あるべきである(例えば喫煙)。 また、基的には「安全性」を向上させ、リスクを低減させるのがテクノロジーの発展の基的な意義である、ということに異論のある向きは少ないと思う。 一方で、そういった「発展」がある種の人には暴力として立ち現れる、ということに、規制当局や専門家側は、もう少し配慮してもいいのではないか。 そもそも、人間はなぜ「べる」のだろうか? もちろん、生命活動を維持するというのが大原則であるが、それだけが目的

    ブタ生肉食は「考えるに良い」か?
  • 人文学/人間性の危機とイノベーションの神学

    国立大学法人評価委員会の答申として、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院について」「組織の廃止や社会的要請の高い分野 への転換」が求められたということと、その際に人文学とはどうあるべきかという議論が抜けているということを、過去二回にわたって書いた。 ・国立大学人文社会科学系「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」という話 ・人文学への「社会的要請」とはどんなものでありうるか? ここでは、もう少し詳細に、(主にデリダの『条件なき大学』といった議論を参照しながら)人文学およびそれをになう大学のあるべき形(とそれが形成されてきた歴史的経緯)と今置かれている危機について議論してみたい。 ・人道、人権と人文学 今回、憲法学者たちの「違憲」判定を軽視する、あるいは揶揄するような発言が政府与党の要人から連発されていることと、文学部に対する政府の否定的態度の間には、共通の根っこがある。

    人文学/人間性の危機とイノベーションの神学