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歴史とあとで読むに関するmorobitokozouのブックマーク (5)

  • “この世界の片隅に”時代を超える平和への祈り - NHK クローズアップ現代+

    異例のヒットを続ける映画「この世界の片隅に」は、これまでにない形で共感の輪が広がっていきました。 原作漫画にほれ込んだ監督が、映画を企画したのは6年前。 資金ゼロからのスタートでした。 しかし、映画化に賛同した多くの一般の人々が制作費を出資したことで軌道に乗り、映画はようやく完成しました。 大がかりなプロモーションもありませんでしたが、SNSなどを通じて評判が幾重にも広がり、動員数は100万人に達しようとしています。 アニメ作品が、キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したのは「となりのトトロ」以来、実に28年ぶりという快挙でした。

    “この世界の片隅に”時代を超える平和への祈り - NHK クローズアップ現代+
  • ゴールデンウィークの最後にエロゲ史におけるクトゥルフ神話を語る

    クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイトは存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。 ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。 ゴールデンウィークを有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義なゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。 1991年~93年まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。 1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫が設立される切掛と

    ゴールデンウィークの最後にエロゲ史におけるクトゥルフ神話を語る
  • 【現代医学】すごく腹が減っているときに食べると死ぬ危険アリ / 戦国時代に「兵糧攻め」で大量の餓死者 | バズプラスニュース

    こんにちは! 歴史好き女医の馬渕まりです。専門は代謝内科。脂質異常症や糖尿病などの生活習慣病が得意分野です。 「めちゃくちゃ空腹のとき、一気にべ物を胃にいれると死んじゃうって話、当ですか?」 ・三木城や鳥取城の「悲劇」が完全スルー 大河ドラマ『真田丸』は昌幸の衣装もカッコイイなぁ……なんてテレビ画面を眺めていたら編集サンからこんな質問をされました。どうやら一昨年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で三木城や鳥取城の「悲劇」が完全スルーされたことを思い出し、この2つの合戦で、実は「大量の餓死者が出た地獄」を今更ながら回想しているもようです。 ・兵糧攻めを徹底した城 飢餓ネタってどうなのかしら……と逡巡しつつも、実は栄養の話は私の専門分野だったりして。決めた。今回のテーマは「兵糧攻め」にしましょう! 上記で触れましたように「三木城」と「鳥取城」は、豊臣秀吉&黒田官兵衛のコンビが『兵糧攻め』を徹底した

    【現代医学】すごく腹が減っているときに食べると死ぬ危険アリ / 戦国時代に「兵糧攻め」で大量の餓死者 | バズプラスニュース
  • 連載第38回 日本が世界の音楽産業にもたらしたもの | Musicman-net

    ▲Sony共同創業者の盛田昭夫と、Apple創業者のスティーブ・ジョブズ。カンファレンスの冒頭で、ジョブズは盛田の死を追悼し、「大きな影響を受けた」と讃えた。 Sonyスピリットを受け継いだApple 1999年10月5日。サンフランシスコのAppleカンファレンス。 前年にiMacで完全復活を遂げたジョブズは、熱狂に包まれ登壇した。スクリーンに映し出された巨大な林檎のロゴを背にして、彼は語り始めた。 「盛田昭夫氏は、私とAppleのスタッフに多大なる影響を与えました。先の日曜日、彼が世を去りました」 『Think different』のフレーズと共に、Sonyの共同創業者の写真が、林檎のロゴに変わってスクリーンに映し出された(* http://youtu.be/K7WmPz5kgjc )。 「スティーブはSonyになりたかったんだ」 Appleの二代目CEO、ジョン・スカリーの言葉だ。ジ

  • 1980年代が日本のコンピュータ産業の分かれ目だったのかもしれない

    ※初出2009-07-05 1982年にソフマップが高田馬場でパソコンのソフトウェアレンタルを始めた。その後数多くのソフトレンタルショップが都内を中心に乱立することになる。ターミナル駅周辺には必ず数件あった。 当時ソフトウェアが著作権法の保護対象になるかは明文化されておらず、ソフトメーカー側とレンタルショップ側が互いに自分の側に理があるというアピール合戦を繰り広げていた。ソフトウェアレンタルに対抗するために現在の社団法人コンピュータソフトウェア協会の前身である日パソコンソフトウェア協会が設立されたのもこの頃だ。 その後ソフトメーカーの運動が実って1985年に著作権法が改正され、コンピュータ用のソフトウェアも著作権の保護対象であることが明記された。そこに至る経緯も紆余曲折があった。当時の通産省には著作権ではなく新たにプログラム権法を制定し、それによってソフトウェアを保護しようという動きがあ

    1980年代が日本のコンピュータ産業の分かれ目だったのかもしれない
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