友人と呑んでいて 「『おとなしい』の対義語は何なんだろう。」 という話になったことがある。 だいたいそういう話をするときは 正解を求めているわけではなくて、 ただ好き勝手な言葉を並べて遊びたいだけ。 その時も思いつく限りのおとなしくない形容詞を並べて ひととおり笑った挙げ句、 「まあ『子どもしい』ということで。」 という、小学生でも思いつきそうなことを言って その話題を締めくくった。 が、後日聞いた説によれば そのアホな答えはまんざらでもなかったかも。 「おとなしい」はもちろん「大人しい」なので その時は「大人」の反対として「子ども」を持ってきたわけだが、 「子ども」ではなく「稚児」だという。 赤子のことを「稚児」と書いて「ややこ」と読む。 つまり「大人しい」の反対は「ややこしい」だという説。 なるほど、大人は「落ち着いていて穏やか」であるのに対して 赤子は「世話をするのに手がかかる」→「
今日も今日とて、「日本語の乱れが懸念されて」います。目上に向かっての「御苦労様」、「一番最後」などの重複表現。これらはそんなに糾弾されるべき言い方なのでしょうか? 今日は、知ることは他者との出会いである、ということについて考えます。 おとぎ話の世界には、あらゆる事が起こった。恋があり、野心があり、裏切りがあり、決定的な出会いと決定的な別離があった。しかし渋谷美竹町の家と平河町の中学校との間を、毎日市電で往復していた私の現実の世界には、全く何事も起こらなかった。私は誰にも出会わなかったから、情熱的な恋に身を任せるはずもなかったし、従ってまた別れの辛さを味わうはずもなかった。中国大陸にはいくさがはじまっていたが、それは私の身辺には及ばず、革命は遠い神話にすぎなかった。私はただ中学校しか知らず、その中学校と私自身にうんざりしていた。 加藤周一『羊の歌』より 上記の引用文は、作家・評論家である加藤
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