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社会と考察に関するcubed-lのブックマーク (5)

  • 空気読みで成り立つ国では無用の論理弁証能力 - 狐の王国

    ときおり、絶望的な気分になることがある。この世の人間というのは、実はそれほど頭が良くないのではないかと思うときだ。 実生活でも使えるディベートテクニック - タケルンバ卿日記 こんな記事が話題にあがっていた。別に俺はディベートやってたわけでもないけど、ここにあるような話し方、考え方は普通のこととして受け入れているものだ。 いや、別にタケルンバさんの記事が悪いと言ってるわけじゃない。無自覚にやってることを自覚的にやるためにも、こういう記事は非常に有用だと思う。 ただ、これを見てまた少し、俺は絶望的な気分になった。 「中華はイヤだ」と主張し、昨晩の料理写真を出したとしても、それだけじゃ何のことかわかりません。これまた「で?」という話。何でそういう主張につながるのか。何故そういう写真が出てきたのか。周りは意味がわかりません。主張と証明の間がリンクしないのです。唐突過ぎて意味が通じないのです。 …

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  • 「死ぬ死ぬ詐欺」とか「2ちゃんねらー」とかアレコレ - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴

    最近id:mushimoriさんのエントリー「「2ちゃんねらー=ネット右翼」に関する覚え書き――「死ぬ死ぬ詐欺」言説に寄せて」 にあれこれコメントしていたのですが(自分のブログを更新せずに何やってるのかと(特に白い人に)怒られそう)、議論に関わった手前、この問題(「死ね死ね詐欺」)について自分のところで改めて考えながらまとめてみようかと思います。 あいかわらず話題についていくのが遅い。 募金に対する私の考え まず私は、募金というものに対してあまり意味を見いだしていません。募金はそれによってわずかな人数の命が一時的に救われるというだけで(それ自体はとても大切なことだけど)、募金を必要とする人間を生み出す構造そのものを変えることには至りません。 たった百円ほど募金するだけで自分の持つ社会に対しての問題意識などを満足させてしまうことや、根的な問題から目をそらし対症療法ばかりに目を向けさせる可能

    「死ぬ死ぬ詐欺」とか「2ちゃんねらー」とかアレコレ - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴
  • 何の為のブログ? - ぶろしき

    ◆404 Blog Not Found:カエルの子を変えるには ◆http://d.hatena.ne.jp/partygirl/20060304 話は全然い違う。でも何とかもっと別な軸で語りたい。 とはいえ、それを理解し墨守するのが、司法関係者という「プロ」だけでは、法治国家とはとても言えまい。実際、今回の事件に際して「市民の暴力」を行政(特に地方行政)はむしろ後押しし、立法は無視しているのを司法が辛うじてい止めているというのが私の印象である。 これはちっとも変な話ではない。もう何度か引用してる『圏外からのひとこと』の世間、社会、権力、そしてネットから。 日では「社会」と「世間」がつるんで意地悪をしてくる、だから息苦しさが大変なものになって、救いがないわけです。 flapjackさんはイギリスの「世間」的なものとして、こういう例を上げていますが、そういう「世間」から見放された人でも

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  • 木走日記 - 今井紀明氏のブログ炎上についての一考察〜「村八分」的な言論封印は健全ではない

    ●今井紀明氏と不肖・木走のアワイ関係 不肖・木走は、実はインターネット新聞JANJANの市民記者もさせていただいてます。まあ私の場合とっても問題児記者なのですが(JANJAN編集部の皆様、今年に入って一回も記事投稿していません。またある書評を大幅に締め切り遅れでご迷惑掛けております。現在執筆中ですので、今しばらく、今しばらくお待ちください(大汗)←お前はそば屋の出前か) 私のことなどはともかく、タイトルにある今井紀明氏ですが、読者のみなさんもよくご存知と思いますが、2004年にイラク人質事件でイラクで人質となりその後解放された3人の日人の中の一人であります。 で、彼は当時実はインターネット新聞JANJANの市民記者でもありまして、まあ、私と彼は、もちろんお互いに何の面識もないわけでありますが、インターネット新聞JANJANの市民記者繋がりというアワイ(苦笑)関係なのであります。 もっとも

    木走日記 - 今井紀明氏のブログ炎上についての一考察〜「村八分」的な言論封印は健全ではない
  • Zopeジャンキー日記 :規格外の東大名誉教授、西村肇

    Rauru Blogの「確かに、まず日語ではあるが」に引用されていた、以下の言葉にピンとくるものがあった。 <したがって結論として言えば、私は単純に日語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う>。 私も、日語は

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