この2日間の記事 ([2014-02-17-1], [2014-02-18-1]) で,18世紀後半から19世紀にかけてのロマン派と synaesthesia 表現の関係について見てきた.言語学的あるいは意味論的にいえば,synaesthesia 表現のもつ最大の魅力は,「下位感覚から上位感覚への意味転用」という方向性,あるいは,背伸びした表現でいえば,法則性にある. この方向性についての仮説を,英語の共感覚表現によって精緻に実証し,論考したのが,Williams である.Williams は,100を超える感覚を表わす英語の形容詞について,関連する語義の初出年代を OED や MED で確かめながら,意味の転用の通時的傾向を明らかにした.さらに,英語に限っていえば,単に下位から上位への転用という一般論を述べるだけではなく,特定の感覚間での転用が目立つという点をも明らかにした.Willi
イレーヌ・タンバによる『[新版]意味論』を読んだ.訳者あとがきにも述べられているように,導入的な文庫クセジュにしてはやや難解ではないかと思いつつ読んだのだが,2度読んでみたら,随所に鋭い洞察がちりばめられていることがわかった.とりわけ第1章,意味論史の概略は有益だった.以下にその概略の概略を記そう. (1) 歴史的語彙意味論が支配的であった比較言語学の進化論.「#1666. semantics の意味の歴史」 ([2013-11-18-1]) でも触れたように,Michel Bréal (1832--1915) が1883年に sémantique を創始した(1897年の著作をもって意味論の誕生とする見解もある).Bréal の意味論は進化論に発想を得ており,意味の進化,進化の一般法則,一般法則の経験的観察からの導出を拠り所としている.これにより,意味論は自然科学の方向と歴史科学の方向
9月21--22日に,大連大学日本言語文化学院で開かれた第五回『中・日・韓日本言語文化研究国際フォーラム』に参加し,中央大学の同僚とチームを組んで「言語使用の前景と背景---言語研究と文学研究について」と題するパネルディスカッションを行った.私は「和製英語の自然さ・不自然さ」という題目で少し話しをした.専門外ではあるが,日本語学において和製英語や外来語の研究は,英語の研究者によるものが少なくないということなので,私もその立場からわずかばかり参与させていただいた,という次第である. この発表のために,記事末に挙げたような参考図書等から和製英語といわれている表現を収集した.結果として231個が集まった.各々が本当に和製英語か否かという問題については,「#1492. 「ゴールデンウィーク」は和製英語か?」 ([2013-05-28-1]) で触れたように,本来,詳細な文献学的調査が必要だが,今
「ホビット族の発祥地について、ビルボの時代のホビットたちは何の知識ももち合わせていなかった。……その最も古いいい伝えでさえ、種族放浪時代にさかのぼるのがやっとであった。」——『旅の仲間』「ホビットについて」より 「『覚えておいでですって?』フロドは驚きのあまり、思わず胸の思いを声に出していってしまいました。……エルロンドはまじめな口調で答えました。『だが、わたしの記憶は上古の時代にまでさかのぼる。エアレンディルがわが父である。わが父は没落前のゴンドリンで生まれた。わが母は、ドリアスのルシアンの息子、ディオルの娘、エルウィングである。わたしは西方世界の三つの時代を見てきた。多くの敗北と、多くの空しい勝利を見てきた。』」——『旅の仲間』「エルロンドの御前会議」より 続きを読む
なかなかわかってもらえないのですが、タイトルの通りです。 これは第二言語習得研究で久しく言われていることです。 文法書を読み、ドリルを解く・・答え合わせをし、もう一回やる・・ 多くの人はそれが当然のやり方だと思っていますが、そのやり方では文法はマスターできないことは「証明済み」なのです。 このように、「文法の間違い」を「修正・訂正」していくことがどの程度効果があるのかという研究があるのですが、その結果「文法の間違いの訂正にはほとんど効果がない」ということになってしまったのです。 これは第二言語習得の本を見ればどれにも書いてある基本的な事項です。 大事なのは、意味のまとまりのあるある程度の長さの文(ストーリー性のある、と言ってもいいですが)を多量にインプットすることなのです。そのように英語のデータベースを作っていかないと、文法だけやっても意味ありません。 インプットというのは、聞く、読む、単
英語で受動態を "passive voice",能動態を "active voice" と呼ぶが,なぜ「態」が "voice" と対応するのだろうか.この文法範疇は主語や目的語などの文の要素が動詞の表わす動作とどのように関わるかを表わすものであり,いわば動作の姿や有様(=態)を標示する機能をもっている.このように日本語の「態」という用語はかろうじて理解されるかもしれないが,なぜ英語では "voice" と表現されるのかは謎である.そこで,調べてみることにした. まずは,OED から.voice, n. の語義13によると,文法用語としての "voice" の初例は15世紀前半である(大陸の文献では初出が16世紀なので,英語での使用のほうが早いことになる).最初期の用例を2つ挙げよう. c1425 in C. R. Bland Teaching Gram. in Late Medieva
英語で,国名が女性代名詞 she で受けられてきた歴史的背景や,過去50年ほどのあいだにその用法が衰退してきた経緯については,##852,853,854 の記事で取り上げた.今回は,なぜ国名が歴史的に女性と認識されてきたかという問題に迫りたい. 1つには,[2011-08-29-1]の記事「#854. 船や国名を受ける代名詞 she (3)」で触れたように,国家とは,為政者たる男性にとって,支配すべきもの,愛すべきものという認識があったのではないかと想像される.船やその他の乗り物が女性代名詞で受けられるのと同様の発想だろう. もう1つは,細江 (259) が「あの国民に対して女性を用いることなどは,明らかにラテン語の文法の写しである」と指摘するように,ラテン語で Italia, Græcia, Britannia, Germania, Hispania などが女性名詞語尾 -ia で終
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