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ブックマーク / note.com/daitamesue (5)

  • なぜ今、この国では努力が報われなくなっているのか|DaiTamesue為末大

    10年ほど前でしょうか。「努力は報われるとは限らない」ということをつぶやいて炎上をしました。アスリートであるあなたが努力が報われないと言ってしまえば努力する人がいなくなるではないかという声をいただき、私なりには思うところもあったもののそういう意見もごもっともだと納得もしました。当時、私の肌感覚では人々の一定数は努力は報われることを信じていたように思います。 「努力は絶対裏切らない」という池江選手の言葉にたくさんの反応がありました。コメントを見ていて驚いたのは、想像以上に多数の「努力しても報われない人は多数いる」「努力しても報われないのがほとんどだ」という声の存在でした。このような意見は10年前には多数派ではありませんでした。きちんと統計を取ったわけではないですが、今この国では、急激に努力に対しての信用が薄れていき、努力しても報われないという感覚を人々が持ち始めているように思います。 努力と

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  • 霧散する記憶|DaiTamesue為末大

    記憶は録画のように頭の中に収まっていて、そこから引っ張り出してきて再生していると思われがちですが、そのようなものではありません。 まず第一に私たちは状況を記憶しているのではなく、印象を記憶しています。あの日見た綺麗な夕日を記憶しているのではなく、夕日を見た時の心象を記憶しているのです。ですからお腹が空いていればその分記憶に影響を与えます。意識しなくても。 絵画で言えば写実ではなく抽象画で、で言えばノンフィクションではなく、事実を織り交ぜたフィクションに近いと思います。 人間は物語的にまとめて記憶を保存されることが知られています。 物語は現在の出来事や、感情によって都合の良いように過去を書き換えられます。後付け再編集と呼ばれます。 ですから、人が記憶を辿って証言する時、全く意図せずとも記憶は書き換えられていきます。 同じビデオを見せ、車が「衝突しましたか」「激突しましたか」「ぶつかりまし

    霧散する記憶|DaiTamesue為末大
  • 誹謗中傷と健全な批判の境目|DaiTamesue為末大

    誹謗中傷というとなんでも批判がよくないと思われているかもしれないが、批判は健全な言論には大事なものだからそれはもちろん許容すべきで、誹謗中傷は法的に定義されているものを参照するのがわかりやすい。名誉毀損、侮辱、営業妨害あたりの発言がひっかかる部分ではないかと思う。 例えば最近私が言われたことは「あなたが五輪をやりたがっているのは利権があるからでしょう」だったが、もしこれが「恩恵」であれば、問題ない。恩恵を受けてない証明は難しいからだ。実際には恩恵をほとんど受けていないのは弊社の五年の売り上げ推移を見るとわかるのだけれどまあそれはいいとして。ただ「利権がある」と言われると証明可能なので、利権があるという証拠を見せなければ名誉毀損の可能性が出てくる。 【利権】利益を占有する権利。業者が公的機関などと結託して得る権益。 広辞苑より 一方で事実であったとしても名誉毀損は成立するそうだ。例えば人種、

    誹謗中傷と健全な批判の境目|DaiTamesue為末大
  • 魅力がある人、役に立つ人|DaiTamesue為末大

    「魅力がある人」と「役に立つ人」は違います。役に立っていけば魅力が増していくと思われるかもしれませんが、役に立つを極めても魅力は手に入りません。役に立つをを極めて手に入るのは「便利な人」です。役に立つと魅力があるは努力の方向と才能の源泉が違います。 「社会で生きていくために必要な能力を身につけ、多様な友人とコミュニケーションを取れる人になって欲しい」という教育の方向は、突き詰めれば社会の役にたつ人間になって欲しいに行き着きます。社会はこう変わるだろう。だからこんな人材が必要とされる。であれば、必要なスキルはこれだ。という風にです。社会の足りないものを埋めることができる人は役にたつ人です。 役に立つための努力の方向は、困りごとの解決であり、便利の提供です。このどちらも機能がなければなりません。が入らない棚は役に立ちません。が過不足なく収容できて初めて役に立ちます。を収納するのに十分な

    魅力がある人、役に立つ人|DaiTamesue為末大
  • 最後に生き残る人|DaiTamesue為末大

    blogを始めて17年、snsというものに触れてもう10年ほどになる。静かだったところから急に盛り上がりある程度の安定を迎え中には衰退を迎えるものもある中で、その中で活動する個人の動きには一定のパターンがあるように思う。 ビーカーの中に泥水が入りそれを激しくかき混ぜると底の方にあったもの舞い上がり全てが水中で混ざり合う。その雑多なカオスの時期を終えると、少しずつ泥水はそこに沈んでいって水は透明になり、何が浮いているか何が沈んでしまったかがわかる。一体それを分けるものはなんだろうか。 新しく始まったものはだいたい得体が知れない。少なくとも一般の大人から見ると。得体が知れないものを面白がるのはやはり得体が知れないか、新しいものを好む一定の人々、そして経験が少なく物事への思い込みが少ない若者たちだ。映画が主流の時代のテレビもそうだったと思う。 次第に市民権を得ていくが、お母さん(比喩)が参入する

    最後に生き残る人|DaiTamesue為末大
    yuki_2021
    yuki_2021 2020/07/28
    なんか考えられそう。ネットで生き残る人の条件は何なのか最近考えてる。
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