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シロクマに関するyuki_2021のブックマーク (58)

  • 新しい社会のロールモデルとしての「推し」を使った処世術 - orangestar2

    こちら、1月の末に発売された(id:p_shirokuma)先生の新刊『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』読ませて頂きました。 これはそのを読んで自分の感じたことを書いたエントリになります。なので、の内容からは一部(かなり)離れた内容になっていると思います。 「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド 作者:熊代亨大和書房Amazon こちらのを読む前に、自分の中の推しの概念について整理した記事がこちらにあります。推し、オタ、萌え、にたいしての自分なりの捉え方や概念の境界について、こちらのを読んで影響される前に出力しておきたかったので、このような記事を書きました。 orangestar2.hatenadiary.com を読んでの感想ですが、こちらの推しや萌えの社会分析のではなく『”推し”という感情を使って、如何に社会適応をしていく

    新しい社会のロールモデルとしての「推し」を使った処世術 - orangestar2
  • ブログを18年書き続けて思うこと (後編・社会のこと) - シロクマの屑籠

    こちらの続き、後編になります。 前編ではブログを18年書き続けてきた自分自身について書いた。ここからはブログをとりまく18年ぶんの社会とか環境とかについて。 この『シロクマの屑籠』が開闢した2005年はブログブームな時期でアーリーアダプターからアーリーマジョリティにブログの書き手が広がっていく、そんな頃合いだった。ウェブサイトよりも書く敷居が低い、誰でも情報発信できるメディアとしてのブログ。それは確かに便利で、ウェブサイトからブログに拠地を移したばかりの私は息を吸うほど簡単にありとあらゆることをブログに書き殴りまくっていた。アメブロやFC2ブログやライブドアブログに書き殴っていた人たちも多かれ少なかれそうだっただろう。 けれども「誰でも情報発信できるメディアとしてのブログ」の寿命は短かった。SNSが生まれ、インスタグラムが生まれ、tiktokが生まれた。ブログ以上に簡単にオンラインにアッ

    ブログを18年書き続けて思うこと (後編・社会のこと) - シロクマの屑籠
  • ブログを18年書き続けて思うこと (前編・自分のこと) - シロクマの屑籠

    2023年も残り一か月になろうとしている。 今年、私はとにかく働いて、創作して、2024年を迎えるための諸準備に追われて、気が付けばブログ18周年だった10月も通り過ぎてしまった。赤ん坊が高校を卒業するぐらいの年月にわたってブログを書き続けるぐらいにはブログが好きなんだから、なにか自分の記憶に残る文章をまとめたいと前々から思っていた。が、中年の多忙と疲弊はそれすら許さないのですね。 この、はてなブログ(旧はてなダイアリー)のブログである『シロクマの屑籠』は、私を当初予測よりずっと遠いところにいざなってくれた。20代の終わりにブログを書き始めた時、私はブログが自分の人生をこんなに変えてしまうとは想像していなかった。しばらくして「ブログだけじゃ足りない、も書いてみたい」と思うようになってからも、じゃあ、ブログもも書くようになったら何が起こるのか・逆に何が起こらないのかを想像できていなかった

    ブログを18年書き続けて思うこと (前編・自分のこと) - シロクマの屑籠
  • タイトルすら読めない人の「声」は今のネットに存在するか - シロクマの屑籠

    note.com 先日、狂人を名乗っている小山さんが、「論破王」ひろゆきさんとtwitterで「議論」になった一部始終をnoteにまとめてらっしゃった。その内容は、ひろゆきさん自身に焦点を当てるよりも、ひろゆきさんのファン層に焦点を当てた内容だった。 小山さんは驚きをもって語る。「日語は読めないけれど論破したい」という欲望が存在する、と。ひろゆきさんのファンからの声には、論争内容を理解したコメントがぜんぜんなくて、まったく論争内容を理解していないコメントが無限に飛んでくる、と。 自分はインターネットに20年以上どっぷり浸かり、不毛なネット論争を何十何百と繰り返してきたわけなのですが、ここまでファン層の知的レベルが低いのは確実にひろゆきさんが初めてだと思います。というか、おそらくは「論争」という知的(?)遊戯を嗜まない層にまでひろゆきさんの影響力は波及している。論争の当事者になることで、そ

    タイトルすら読めない人の「声」は今のネットに存在するか - シロクマの屑籠
  • A.口ずさむようにブログが書けない B.ブログになら書けることがある - シロクマの屑籠

    【A面】 「ブログは何を書いたって構わない、自分だけのスペースだ」みたいな言葉を信じていたのに、きっと今の私はそうなっていないし、そういう自由なブログを信念にしていたブロガーたちは去ってしまった。口ずさむようにブログを書くことなんて、もうできない。 何者かになると口ずさむようにブログが書けなくなる 口ずさむようにブログが書けなくなったのは、年を取ったせい、人生の残り時間が意識されるせいもある。ブログを口ずさむ時間があったら、人生の残り時間を費やすに値すること・タイパ的に有意味とわかっているものに時間を費やしたほうがいい、などと考えている自分がいる。ほんとうは、それほど単純ではない。たとえば商業企画の原稿やそのための文献読みなどに時間を振り分け過ぎると、それ自体、作業効率を低下させる。ときには口ずさむように文章を書く時間をもうけたほうが作業効率は上がるし、案外、そういう隙間の時間から面白いア

    A.口ずさむようにブログが書けない B.ブログになら書けることがある - シロクマの屑籠
  • 社会に溶け込んでいる、発達障害の人の話

    21世紀に入ってから、「発達障害」という言葉はすっかり知られるようになり、「自分が発達障害かどうか調べて欲しい」という相談を外来で受けることが増えました。 そのように精神医療のドアを叩き、発達障害と診断される人の大多数は、日ごろ、社会で生きていくことに困難を感じていたり、周囲とのあつれきを感じていらっしゃるものです。 そりゃそうでしょう、何か困った問題が生じていない限り、病院を訪れることはないでしょうから。 社会に溶け込んでいる「発達障害と診断され得る」人々 発達障害という名前が広く知られるにつれて、精神科医が発達障害と診断する頻度はかなり増えました。 過去、違った病名をつけられていた人のなかにもASD (自閉スペクトラム症)やADHD (注意欠如多動症) に相当する人が混じっていることも判明するようになり、新しい対策や治療法が立てられるようになりました。発達障害を巡る状況は、全体的に進歩

    社会に溶け込んでいる、発達障害の人の話
  • おれたち、黙って死んでくれると思われてませんか? - シロクマの屑籠

    togetter.com 上掲リンク先は、「氷河期世代が高齢になった時、若い世代のために切り捨てられる」的な話題のtogetterだ。私のタイムラインではよく見かける話で、実際、氷河期世代が高齢者になった時、今までどおりの社会保障が支えづらくなるのは多くの人が予想していることだ。 将来に限らず、就職氷河期世代、ロスジェネ世代とかロストジェネレーションとか呼ばれた人たちは、バブル崩壊後の影響をモロに受けて就職難に遭遇し、結婚や家族を持つ機会も逸し、これからは社会保障費のお荷物とみなされようとしている。それはそのとおりなのだろう。そんなわけで、当の氷河期世代はツイッター上で自分たちの不遇や見捨てられようとしている未来を悲観してみせる。 「おれたちを生かさないとただじゃおかないぞ」と氷河期世代は行動したか? 氷河期世代の境遇が不遇だったのはわかる。 では、その不遇な氷河期世代は「おれたちは不遇だ

    おれたち、黙って死んでくれると思われてませんか? - シロクマの屑籠
  • 伝わりすぎる、伝えすぎる、このネットという場所について - シロクマの屑籠

    これから書くことは個人的なエッセイだが、そのエッセイがネット上に置かれるため、タイトルにあるように、伝わり過ぎてしまうかもしれない。文章が指し示した内容どおり伝わるかは定かではないし、私が書いている際に考えていたとおりに伝わるのかも定かではない。たぶん、両方ともかなわないかたちで伝わったりもするだろう。どうあれ、ネット上に置かれた文章はどこかに伝わる。正確性の高低にかかわらず伝わる。 私がインターネットを格的に使い始めた2000年前後だが、そのとき、ネットに書いた文章はボトルメールみたいなもので、自分が書いた文章が伝わる宛先はひとりふたり、多くて十数人の感覚だった。大きなウェブサイトや有名テキストサイトで活躍していた人は、ネットに書いた文章をボトルメールとは思わなかったかもしれない。とはいえ、大きなウェブサイトや有名テキストサイトですら、それらを愛顧している人に文章を伝えるのが専らだった

    伝わりすぎる、伝えすぎる、このネットという場所について - シロクマの屑籠
    yuki_2021
    yuki_2021 2021/07/21
    ネットが小さな内輪だけでコミュニケーションを取る牧歌的な時代は通り過ぎ、ネットとリアルと密に繋がってしまった。おそらくネットもリアル同様、不適当な事をしたら罰せられるようになるかも。
  • 熊代亨『何者かになりたい』感想〜アイデンティティ獲得の攻略本と主体的な選択の余地に悩める幸運への感謝 - 太陽がまぶしかったから

    「何者かになりたい」 と思ったことがなかった 「自分」に満足できないのは、なぜ? 〈承認欲求〉〈所属欲求〉〈SNS〉〈学校・会社〉〈恋愛結婚〉〈地方・東京〉〈親子関係〉〈老い〉 アイデンティティに悩める私たちの人生、その傾向と対策。 「何者かになりたい」 多くの人々がこの欲望を抱え、それになれたり、なれなかったりしている。 そして、モラトリアムの長期化に伴い、この問題は高齢化し、社会の様々な面に根を張るようになった。 私たちにつきまとう「何者問題」と、どうすればうまく付き合えるのか。 人と社会を見つめ続ける精神科医が読み解く。 何者かになりたい 作者:熊代亨イースト・プレスAmazon 「何者かになりたい」という感情について、実のところあまり抱いたことがなかった。もちろん人並みのロールモデルを思い描いてはいたが、それは健康で、家族や友人がいて、お金に困らず、趣味が楽しめればといった類のも

    熊代亨『何者かになりたい』感想〜アイデンティティ獲得の攻略本と主体的な選択の余地に悩める幸運への感謝 - 太陽がまぶしかったから
  • 「何者かになりたい」と願う人とそうでない人、どこが違うのか

    先日、私の新しい『何者かになりたい』がイーストプレスさんからリリースされた。 想定読者は「何者かになりたい」と願わずにいられない人や「何者にもなれない」と悩んでいる人だ。 そうした気持ちをどこかに抱えながら中年期を迎えた人も、潜在的読者かもしれない。 ところで、この「何者かになりたい」「何者にもなれない」といったフレーズには、シンパシーをおぼえる人とまったくおぼえない人がいるのが通例だ。 たとえば先月、講談社ビジネスに 『「何者かになりたい人々」が、ビジネスと政治の「い物」にされまくっている悲しい現実)』という記事が公開された時、twitterはてなブックマークではこうした気持ちへのシンパシーがたくさん書き込まれると同時に、「そんな気持ちになったことはない」という書き込みも少なくなかった。 先月公開された『いい年した大人の『何者かになりたい』という感覚は、けっこう厄介。』という記事で

    「何者かになりたい」と願う人とそうでない人、どこが違うのか
  • いい年した大人の『何者かになりたい』という感覚は、けっこう厄介。

    シロクマ先生から、先日出版されたを送っていただいた。 タイトルは「何者かになりたい」。 ちょうど一年ほど前に、先生から寄稿された記事の続編と考えたらよいのかもしれない。 「何者かになりたい」という望みはまだ死に絶えてはいなかった 「えっ? その……『何者かになりたい』って気持ちって、今の若い世代にも通じるんですか?」 私がそう問い直すと、彼は 「そういう気持ちを持っている人はまだいますし、私にも『何者かになりたい』気持ちはあります。」 とはっきり答えてらっしゃった。 「何者かになりたい」という欲求は、まだ死に絶えてはいなかったのか。 (Books&Apps) 上の記事では、先生は「大人にばれないように「何者かになりたい」と熱望する若者には共感しかない。」と締めくくっていた。 * さて、私が「何者かになる」というフレーズに出会ったのは、2012年に出た、朝井リョウ氏の著作が初だった。 直木

    いい年した大人の『何者かになりたい』という感覚は、けっこう厄介。
  • もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ - シロクマの屑籠

    書くことがなくなった - phaの日記 リンク先の文章がアップロードされた時、半目でそっと、逃げるように全文を読んだ。読んではいけないものを読んだ気分になった。 それから丸一日が経ち、寝る前に再び「書くことがなくなった」というタイトルを思い出していたら、おなかが痛くなってきた。心に引っかかっていることがある時の、そういう腹痛だとすぐにわかった。やっぱり他人事ではなかったのだ。他人事ではないから逃げるように読み、ブックマークすることもツイッターで言及することもなかった。が、腹痛をとおしてこれが自分の問題だとハッキリ認識した。たぶん、私と同じぐらいの年齢の、だんだんオンライン上で文章を書かなくなっていった人たちも他人事ではないだろう。 phaさんが言う「書くことがなくなった」の内実はどういうものだろう? あくまでオンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書くことがなくなったのか。それと

    もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ - シロクマの屑籠
    yuki_2021
    yuki_2021 2021/05/26
    僕はひたすら環境に適応して書き続けようと割り切った。書くことは死ぬまで続ける。
  • 「メンヘラ」という言葉はどう変化してきたか。精神科医が解説(熊代 亨) @gendai_biz

    2010年頃から2ちゃんねるを中心に広まりはじめた造語「メンヘラ」。ニコニコ動画やTwitterなどでも散見されるこの「ネット俗語」が生まれたことには、どういった社会的背景があるのか。精神科医の熊代亨氏が考察する。 メンヘラの誕生 皆さんは「メンヘラ」という言葉をご存知でしょうか。 なんらかの精神疾患を抱えている人や、抱えていると思われる人は、インターネットの俗語でひとまとめにメンヘラと呼ばれています。 メンヘラは特定の精神疾患を指しているわけではなく、ニュアンスのあいまいな言葉です。 一応、境界性パーソナリティ障害がそれに近いとみる向きもありますが、ネットの内外でこの言葉が使われているさまを見ていると、衝動のコントロールがあまり良くない人、風変りな言動の人、うつ病や不安障害で精神科や心療内科に通院している人などが、一緒くたに「メンヘラ」と呼ばれているように見受けられます。 また、他人を揶

    「メンヘラ」という言葉はどう変化してきたか。精神科医が解説(熊代 亨) @gendai_biz
  • お金に困っている人のほうが、お金がかかってしまう

    精神保健福祉の分野では、精神科医が主役ではない場面がとても多い。 保健師・ソーシャルワーカー・市役所福祉課職員・警察官や弁護士といった他職種によるサポートこそが肝心なことがしばしばある。 クライアントの生活を支えるためには、多職種による連携が必要だ。 そうやって色々な職業の方とクライアントのお金の問題をディスカッションしている時に、ふと、右のようなことが頭をよぎることがある。 ――「今の世の中って、お金に困っている人のほうが、お金がかかってしまうんじゃないか」――と。 どういうことかというと、生活費が入ると右から左へ全部使ってしまう人や、いわゆる“やりくり”が出来ない、というより“やりくり”が完全に欠落していて、そのせいで経済的にますます困ってしまう人があちこちで見受けられるからだ。 しかも、そういう人は精神保健福祉のリーチする内側だけに存在するのでなく、外側にもかなりの確率で混じっている

    お金に困っている人のほうが、お金がかかってしまう
  • 「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発 - シロクマの屑籠

    anond.hatelabo.jp goldhead.hatenablog.com 二人が書いた二つの人生を立て続けに読み、何か書きたくなった。 私の脳内で最近渦巻いている何かが出かかっている。 うまく書けるだろうか。 *    *    * 「底辺を這うおれには努力というものがわからない」を記したgoldheadさんには、文筆の才能があると私は思っている。ところがgoldheadさんはコツコツと努力を積み重ねることができなかったか、やらなかった。できないとやらないは、ある程度は重なるが、ある程度は別の問題でもある。ともあれ、自分自身の能力や才能を、努力をとおして「社会化」することにgoldheadさんが長けていなかったことだけは間違いないだろう。 対照的に、「追いつけ追い越せ」を記した匿名筆者さんはコツコツと努力を積み重ねることには長けていて、学歴に勝る同輩たちを追い越してしまった。 匿

    「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発 - シロクマの屑籠
  • ブログ15年選手の、ネットで生き残る技術。

    私はブログを書くのが好きで、好きが嵩じても書くようになったのですが、つい先日、私のブログ『シロクマの屑籠』が15周年を迎えました。 15年前の2005年にはYouTubeもニコニコ動画もなく、ツイッターやインスタグラムもありませんでした。 はてなダイアリー(現はてなブログ)とはてなブックマーク、2ちゃんねる周辺で生存競争を繰り広げていたのが私のルーツです。 時代は変わって2020年。 ブログを書いている人は昔ほど多くありません。 かわりに動画配信やインスタグラム、ツイッターで頑張る人が増えました。 飲店や企業もアカウントを作ってセルフブランディングするようになりましたね。 ネット上にアウトプットできる情報メディアが増え、アウトプットする人も増えましたが、うまいこと・長くアカウントを運営できる人はそう多くありません。 企業アカウントですら、ときには継続不能に陥ってしまうことがあります。

    ブログ15年選手の、ネットで生き残る技術。
  • お盆に還ってきた元ブロガーさんへ - シロクマの屑籠

    ※この文章は、はてな村と呼ばれたブログコミュニティで活躍した元ブロガーへの手紙です。興味のない人は畳んでください※ インターネットで表舞台に立たなくなってから、もうずいぶんと長い年月が.. [B! 増田] 諸般の事情によりブログをやめざるを得なくなった。んで、なにも書かなく..(※元文章は差し替えられているため、ブックマーク貼付) お盆の季節に、はてな匿名ダイアリーに相次いで二つの投稿があった。00年代~10年代にかけて活躍した元ブロガーが書いた文章であることは明白で、当時を知っている人ならすぐに判っただろう*1。 この元ブロガーさんはアニメやゲームに対しても、世間や人間に対しても独特の感性を持っていて、我流の文体とあわさって唯一無二の面白さをみせていた。単に面白いブロガーなのでなく、一度覚えたら忘れられないブロガーだったと思う。 二つ目のリンク先でご人が吐露しているように*2、この元ブ

    お盆に還ってきた元ブロガーさんへ - シロクマの屑籠
    yuki_2021
    yuki_2021 2020/08/13
    てんちょの書いた文章読みたいけど、生業の方もきつそうだしなー。文章に囚われた人間が書くのをやめられるかね?とは思う。
  • それは「成功」か、それとも「事故寸前」か、認識できていますか。

    これから書く話は、医療の世界でもブログの世界でも感じることだ。 ゲームでハイスコアを狙っている時にも通じている。 だから割と普遍的で、それ以外の分野にもしばしばあてはまると思って読んでみてほしい。 1.「シロクマ先生、”きわどいところ”を渡ったね」 私が研修医を終えるか終えないかの頃、ある若い患者さんを担当していた時のことだった。 その若い患者さんはご両親に強い反発をおぼえていて、「一人でアパート暮らしをしたい」と前々から主張していた。 彼は薬物療法を中断してしまうとすぐに症状が再発してしまう患者さんで、逆に言うと、薬物療法が続いてさえいればほとんど問題なくやっていける患者さんだった。 ひとり暮らしになれば薬を飲むのをさぼってしまい、再び具合が悪くなるのではないかと両親は心配していた。 入院してからの首尾は良く、薬物療法によって彼の精神症状は改善し、やがてなくなった。 そうなったうえで、患

    それは「成功」か、それとも「事故寸前」か、認識できていますか。
  • 「何者かになりたい」という望みはまだ死に絶えてはいなかった

    先日、ある二十代の男性から「シロクマ先生、『何者かになりたい』と思っている人はいったいどうしたらいいんでしょうか」という質問をもらって、びっくりすることがあった。 「えっ? その……『何者かになりたい』って気持ちって、今の若い世代にも通じるんですか?」 私がそう問い直すと、彼は 「そういう気持ちを持っている人はまだいますし、私にも『何者かになりたい』気持ちはあります。」 とはっきり答えてらっしゃった。 「何者かになりたい」という欲求は、まだ死に絶えてはいなかったのか。 「何者かになりたい」の全盛期と、その行方 20世紀に思春期を過ごした私には、この「何者かになりたい」という欲求は懐かしさをおぼえるものだ。 1980年代にはフリーターという新しいワークスタイルが持てはやされ、「ただのサラリーマンになりたくない」若者たちが自らフリーターになった。 1990年代にはバブル経済の崩壊や阪神淡路大震

    「何者かになりたい」という望みはまだ死に絶えてはいなかった
  • 「まともな人間の条件」と、そこからはみ出す自分自身について - シロクマの屑籠

    健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会に潜伏しています。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。 はてなブログで付き合いの長かったいぬじんさんから、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会』についてお便りをいただきました。ありがとうございます。せっかくなので、前半章(1.)と後半章(2.)に分かれたreplyをお届けしています。 1.いぬじんさんは、拙著の前半章をご覧になって、こんな風に評しておられました。 シロクマ先生は書の中で、この国の「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」のあり方について疑問を投げかけるだけでなく、精神科医としてのご自身の立場に対してさえも疑いのまなざしを向けている。 たとえば、こんな感じだ。 資主義・個人主義・社会契約が徹底していく社会、どこまでも清潔で健康で道徳的になりゆく社会、秩序と社会適応の同心円へあらゆる人を包み込む社会から逃れることは困難になった。家庭でも

    「まともな人間の条件」と、そこからはみ出す自分自身について - シロクマの屑籠