タグ

ブックマーク / note.com/fumiken (9)

  • 封書のなかのカミソリの刃。|古賀史健

    ほとんど都市伝説のような、けれどもたぶんほんとうにあった話だ。 昭和の時代、ドラマや映画小説のなかでしばしば「ファンレターのなかにカミソリの刃が入っている」という描写があった。なにも知らずに開封したアイドルや俳優さんがそれで怪我をするところまでが、セットで描かれていた。任侠映画や社会派映画だとここに、銃弾が入っていたりする。銃弾そのものに危険はない。相手を直接傷つけるためではなく、恫喝するために送っているわけだ。 おのれの顔面に鬚が生える日のことなど思いもよらず、カミソリの刃という道具に馴染みのなかった子ども時代のぼくは、あのファンレターにまぎれ込んだカミソリの刃が、とても怖かった。ぴゃっ、と線を引くように指を切る描写が、そこからどくどくと流れ出る血の描写が、このうえなく怖かった。そして実際に指を切らなかったとしても、カミソリ入りの封書を受けとることは恐怖以外の何者でもなかっただろう。た

    封書のなかのカミソリの刃。|古賀史健
  • 匿名性とショーペンハウアー。|古賀史健

    19世紀に活躍した哲学者、ショーペンハウアー。 評論雑誌のなかで、匿名で言論活動をおこなう批評家たちについて彼は、こんなことばを残している。 もはや文筆の世界におけるほど、不誠実が幅をきかせているところはない。(中略)なによりも、物書きの悪習の盾となっている匿名性が廃止されねばならない。評論雑誌が匿名性を採用した口実は、読者に警告する正直な批評家を、著者やそのパトロンの遺恨から守ることだった。 「著述と文体について」(『読書について』収録 鈴木芳子訳/光文社古典新訳文庫)なぜ言論に匿名性が必要なのか。それは声をあげた者(この場合は誰かの著作物について批評した者)を、保護するためである。身の安全が担保されてこそ、批評家は正直な批評をおこなうことができる。それがメディアの言い分だった。というわけである。しかし彼は、その欺瞞をこうあげつらう。 だがこの種のケースが一件あれば、自分で言ったことの責

    匿名性とショーペンハウアー。|古賀史健
  • フリーランスの落とし穴。|古賀史健

    今年の2月2日に書いた日記である。 “相変わらず学校のことばかり考えている 考えれば考えるほど 自分の首をしめるプランが浮かんでくる” 字の汚さはともかくとして。 ここに書かれた「自分の首をしめるプラン」とは当然、「バトンズの学校」最大の目玉ともいえる「1000枚のフィードバック」である。受講生さんたちに毎回原稿を提出してもらい、そこにたっぷりの添削と総評を返していく。インタビュー原稿については、取材音源まで提出してもらい、それを全部聴いたうえでフィードバックを返していく。 着想当時からもう、これが自分の首を絞めるプランであることはわかっていた。そして実際、すでに首が絞まりはじめている。受講生さん全員に、誠実に向き合おうとしたとき、思っていたより何倍も大変だ、これは。 とはいえ、こちらの学びが多いのも事実である。 よく言われる話ではあるものの、「教えることは、学ぶこと」なのだと痛感させられ

    フリーランスの落とし穴。|古賀史健
  • 書かない人は、書けない。|古賀史健

    ああ、この話はあんまりしてこなかったかもしれない。 いまからちょうど25年前、ぼくは福岡にあるちいさな出版社の門を叩いた。自社刊行物はあるものの、売上のメインはビジネス雑誌の企画記事、その編集業によるもので編集プロダクションと言ったほうがいい会社だ。大学を出たあとのぼくはメガネ店に就職し、1年ほど務めたあとに退社。そのまま実家暮らしの無職男としてぶらぶら過ごし、先輩のインディーズ映画制作のお手伝いをするなどしていた。そうしていよいよ貯金も尽き、世間体その他を考えてなんとなく、前述の出版社の採用試験を受けたのだった。 数十人が参加した一次試験は、会場で言い渡されたテーマに基づく、作文だった。たしか「祭り」をテーマになにか書かされたと記憶している。無事に一次試験を通過すると、次は面接なのだという。さあ困った。なにしろぼくは1年近く職のないままぶらぶらしていた男だ。その前の職歴もメガネ屋さんで、

    書かない人は、書けない。|古賀史健
    yuki_2021
    yuki_2021 2021/05/25
    当たり前っちゃ当たり前。書くことを仕事にできる人の才能って、特に理由がなくても書くことが出来ることだと思う。
  • 鮮度よりも大切なもの。|古賀史健

    まあ、バズったことなんてないんですけどね。 2015年の1月以来、平日は休まず note を書いている。さきほど確認したところ、きょうの更新で1405目なのだそうだ。あんな日もあった。こんな日もあった。書いてる場合じゃない、なんてな日もたくさんあった。それでもどうにか、続けられている。いつまで続くものだか、なかば他人事のように見守る自分がいる。やめるとしたらこの人、なんて言ってやめるんだろうなあ、と。 そういうふうに6年以上も日々の更新を続けていると、おもしろい法則を発見する。 たとえば書く前に、あるいは書きながら、「これはすごい大発見だぞ!」みたいに興奮することが、たまにある。自分はとんでもない発見をしてしまったのかもしれない、世界を揺るがす真理にたどり着いたのかもしれない、まだ誰も知らない「ほんとうのほんとう」を見つけてしまったのかもしれない。これを書いてしまったら、みんな大騒ぎする

    鮮度よりも大切なもの。|古賀史健
    yuki_2021
    yuki_2021 2020/09/17
    ブログの毎日更新で大事なこと。
  • noteの「感じ」を、ひと言でいえば。|古賀史健

    もともとが少なすぎるんじゃ、というご指摘はあるだろうけれど。 気がついたら note のフォロワー数が、twitter でのフォロワー数を超えていた。まだ数百の差ではあるものの、勢いから考えるにたぶん、今後ますます note のほうが増えていくんじゃないかと思う。 ぼくは、積極的な twitter ユーザーでは到底ない。おもしろい投稿は皆無に等しく、もっぱら告知と友だちとのおしゃべりに、twitter を使っている。バズる、という経験もゼロと言っていい。だからこの数字自体におおきな意味を求めようとは思わないのだけど、note はよく続いているし、いいサービスだと思っているし、せっかくの機会なので note という場についての所見を書いてみたい。「ここがいいよね」と「ここは改善されるとうれしいなあ」との両方を。 ブログ、ということばが正しいかどうかはわからないけれど、ぼくはこれまで何度かイン

    noteの「感じ」を、ひと言でいえば。|古賀史健
    yuki_2021
    yuki_2021 2020/08/01
    “ブログはWindowsっぽくて、 noteはMacっぽいのだ。”すごい分かる。
  • 「稼ぐ」という発想について。|古賀史健

    何気なく発したことばから、思わぬ音がこぼれ落ちることがある。 たとえば、「PVを稼ぐ」という表現がある。ほとんどの人は無意識に使っているだろうけれど、PVには「稼ぐ」の動詞が用いられる。しかし、出版の世界で「50万部を稼いだ」などと表現することは、ほぼありえない。せいぜい「50万部を記録した」だったり「50万部を突破した」だったり、あるいは動詞を用いず「50万部のベストセラー」と表現したり。それが出版界のカウント方式だ。じゃあ、どこから「稼ぐ」のことばが出てきたかというと、やはりテレビ業界だろう。当該番組の視聴率について、テレビ業界の人たちはしばしば「稼ぐ」の語を用いる。 ところがおもしろいことに、当該番組がDVD化され、大ヒットした場合にはやはり「50万枚突破」などとカウントする。「50万枚を稼いだ」とは言わない。 なぜか。DVD化するとは、つまり「モノ化」するということだ。そして、モ

    「稼ぐ」という発想について。|古賀史健
  • 上方比較と下方比較。|古賀史健

    むかしむかし、心理学のをつくっていたときのこと。 人間はどうしても、おのれと他者とを比べてしまう。「人と自分を比べていないで、自分らしく生きなさい」というお説教のことばが正しいことは知りながら、やっぱりどこか比べてしまう。そしておのれと他者とを引き比べるにあたって、そこにはおおきく「上方比較」と「下方比較」というふたつの傾向があるのだと心理学者の方に教えていただいた。 上方比較とは、自分よりも(さまざまな意味で)上にいる人を見て「すげえなあ、おれもあんなになりたいなあ」と焦がれる状態を指す。一方の下方比較とは、自分よりも下にいる人を見て「あいつらに比べれば、おれもマシだよな」と安心し、自尊心を高める状態を指す。ぼくの記憶によると、途上国の人びとは全般的に下方比較を好む傾向があり、それゆえ上昇志向につながらず、経済的停滞を招いてしまう、という研究もなされていたはずだ。 と、こうやってふたつ

    上方比較と下方比較。|古賀史健
    yuki_2021
    yuki_2021 2019/03/08
    上を見ても仕方ないし、下を見てもキリがない。
  • いい気になる、ということについて。|古賀史健

    だれかに毒を吐いてやろう、と思っているわけではない。 いつかしっかり書いてみたい(つまりは考えてみたい)とは思っていたものの、たぶんストレートに書くと毒づいてる中年にしか映らないだろうなあ、それはちっともうれしくないことだよなあ、と躊躇していたテーマがある。しかし昨日と今日、糸井重里さんが「今日のダーリン」のなかで、かなりていねいに、そして肯定的な面を踏まえながら、それについて書かれていた。一部、引用させていただこう。 人は、怖がりでこころの小さいところからはじまって、「いい気になってる」を繰り返して大きくなる。舞台に上がるとは、そういうことなのだろうと思う。 (2018年8月28日 ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」より) ぼく自身は、この「いい気になる」ということとこれまでどうやって付き合ってきたのだろうか。ずっと考えてきたのに、よくわからないままなのだ。 もちろん、ある年齢くらいか

    いい気になる、ということについて。|古賀史健
    yuki_2021
    yuki_2021 2018/08/30
    文章書きは、真意を胸にただただ生きる。そういうことだと思う。
  • 1