西洋風の建築物や路面電車が走る那覇の近代的な街並み、琉球王国時代からの伝統の芸能や暮らし。朝日新聞大阪本社で見つかった戦前の沖縄の写真には、琉球が日本の1県として変わっていく姿と、祖先から受け継いだ生活文化を営む人々のたくましい姿が入り交じる。那覇、島尻、やんばる、宮古、八重山。沖縄戦後、風景は一変したが、人々の暮らしぶりは今の私たちの文化につながっていることを知らせてくれる。計165枚から一部を紹介する。(社会部・城間有)(写真は全て朝日新聞社提供) 大正から昭和初め 那覇の市場 大正末から昭和の初めに撮影された那覇の市場。写真裏のメモには「左方の建物は肉市場(市設)」と書かれている。当時東町の旭橋付近に公設市場があり、魚や野菜、米、雑貨、焼物などが売られていた。肉市場は「シシマチ」と呼ばれていた。路面電車は、1914年から33年まで那覇市の通堂-首里間を走った「沖縄電気軌道」。人力車や
クラッカーを食べる子どもたち=1952~54年ごろ、沖縄本島(琉米歴史研究会提供) 【北中城】NPO法人琉米歴史研究会(喜舎場静夫理事長)は、15日に沖縄県北中城村あやかりの杜で開いた記者会見で、1952~54年に県内で撮影されたカラー写真を公開した。207点の写真は、戦災を免れた沖縄の美しい風景や子どもたちの生き生きとした表情をとらえている。当時、米軍基地の小学校に勤務していた教師が撮影し、米国の男性を通して同NPOに提供された写真の一部を紹介する。 米兵らに花を売る子どもたち=1952~54年ごろ、沖縄本島(琉米歴史研究会提供) 子どもたち=1952~54年ごろ、国頭村奥間(琉米歴史研究会提供) 洗濯する人々=1952~54年ごろ、金武町(琉米歴史研究会提供) アーニー・パイル国際劇場前の人々=1952~54年ごろ、那覇市(琉米歴史研究会提供) 首里の龍潭周辺=1952~54年ごろ、沖
74年前の沖縄。1945年4月4日、米軍が設置した病院にて。女性患者たち。 白黒写真を、人工知能+手動補正でカラー化しました。 https://t.co/2Slvwhb1SU
名物肉そばを食べる南風原町から来た桃原文太朗ちゃん=那覇市通堂町の「お食事処波布」 お皿にたっぷりと愛情が盛られたボリューム満点のウチナー料理が人気の通称「波布(はぶ)食堂」(沖縄県那覇市通堂町)が28日、27年間の営業を終える。閉店を惜しむ県民や観光客が開店前から列を作り、創業以来のおおにぎわいとなった。 行列嫌いの県民性をよそに27日、店前には開店3時間前から並ぶ客の姿が。店内の50席は開店と同時に全て埋まり、昼時には100人を超える客が店の外まで行列を作った。 常連の山城一さん(50)=那覇市=は「朝一番に並んだ。いつもおばさんから元気をもらっている。閉店は寂しい」と話し、シーブン(おまけ)の三枚肉を名残惜しそうに頰張った。 城間宗信さん(65)=南城市=は「孫に見せておきたかった」と話し、福岡から来た孫の瀬底正太郎さん(12)は「お店の雰囲気が好き。ここでしか味わえない味」と満足顔
ヤギと戯れる猫たち=6日、沖縄県南城市玉城の糸数カプラファーム(喜瀨守昭撮影) 沖縄県南城市玉城の農業生産法人「大地」が運営する糸数カプラファームには、ネズミからヤギ舎を守る番犬ならぬ“番猫”たちがいる。ネズミ取りのために飼われた5匹の猫とファームで育てられているヤギが、仲良く遊んだり、牧草の上でまったり休んだりする姿が見る人を和ませている。 大地は、南城市産のハーブを飼料に混ぜて育てたヤギ「南城ハーブ山羊」を飼育・生産し、精肉や加工肉を販売する。南城ハーブ山羊は独特の臭みが少ないと注目を集めている。 一方、ファームではヤギの飼料を狙ってネズミがヤギ舎にたびたび侵入する事案が問題になっていた。「ヤギはネズミを追い返すことができない」と取締役の嶺井良一さんらも手をこまねいていた。そこで一役買ったのが猫だ。昨年譲り受けた猫をヤギ舎で飼ったところ、ネズミが1匹もいなくなったという。 嶺井さんは「
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