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論に関するlotus3000のブックマーク (6)

  • コンビニエロ本問題を考える(序 - 地下生活者の手遊び

    1 30年も前になるか、知人が変わった裏ビデオを好んで集めていて、何度か見せてもらったことがある。自らの欲望のまま撮影したのか、一般的なエロなる感覚を誤解していたのか、怪作と言うか実験映像としか思えないような作品がけっこうあった。例えば、納豆を何百パックもぶちまけた風呂桶で、ボディ・ペインティングを施した男女がいろいろな運動をしている映像を見ても、性欲で凝り固まった20代前半のプレハブちんこ(=すぐ立つ)をもってしてもぴくりともしなかった。「エロって何なんですかにゃー?」と考えさせられるばかりである。 そうした「実験映像」の中でも特に印象に残っている作品がある。 公共交通機関である電車のなか(多分、山の手線)、白昼堂々と事に及んでしまうという内容の作品である。 このビデオ作品の冒頭で、出演女優、製作者たちが制作意図を以下のように語っていた。 「よき社会人ヅラをしていても、人間というのは性欲

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  • まとめよう、あつまろう - Togetter

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  • 植村和秀『昭和の思想』(講談社選書メチエ) - パオと高床

    まず、この語り口調の平易さにほだされる。 さらに整理のよさと手際の周到さでわかりやすいという気にさせる。それで、この、一気読みできるわけだが、来ここにあるものの持っているわかりにくさは、思想というもの自体のわかりにくさであるわけで、さらに思想が政治思想として動く昭和を捉えようとしているものであれば、致し方ないのでは、と思う。ただ、時間軸としての戦前=戦後という区分けではなく、昭和が持っていた「二つの貌」を体現している人物を定点にして論じている書は、この先を同じ著者の別ので読みたくさせる魅力を持っていた。 著者は、「理の軸」と「気の軸」を設定する。そして、「理の軸」の右に平泉澄を左に丸山眞男を置く。この「理の軸」は「政治理念によって自己形成することを生の理想とし、理念によって論理的に再構成することを重視」する軸とされる。そして、平泉澄を「皇国史観というものを非常に明晰に、論理的に作り

    植村和秀『昭和の思想』(講談社選書メチエ) - パオと高床
  • 「訓読」論 [978-4-585-03184-0] - 5,280円 : 株式会社勉誠社 : BENSEI.JP

    東アジアから「訓読」を読み直す 「訓読」という異文化理解の方法を再考し、日伝統文化の形成、さらには東アジアの漢字・漢字文化圏の文化形成のあり方を論じる。 なぜ、いま「訓読」論か/中村春作 第Ⅰ部 異文化理解の「課題」としての訓読 「訓読」の思想史―〈文化の翻訳〉の課題として―/中村春作 近代における「漢文直読」論の由緒と行方―重野・青木・倉石をめぐる思想状況―/陶 徳民 ピジン・クレオール語としての「訓読」/高津 孝 ベトナムの「訓読」と日の「訓読」―「漢文文化圏」の多様性―/岩月純一 第Ⅱ部 訓読と日語・日文化の形成 日における訓点資料の展開―主として音読の視点から―/沼克明 近世における漢文訓読法の変遷と一斎点/齋藤文俊 漢文訓読体と敬語/前田 勉 国語施策と訓点語学/山東 功 第Ⅲ部 訓読論の地平 〈訓読〉問題と古文辞学―荻生徂徠をめぐって―/田尻祐一郎 表現文法の代用品

    lotus3000
    lotus3000 2012/10/17
    ピジンクレオールとしての漢文という見方はできないだろうか。
  • 他者を使った自己肯定―子供に自分と同じ人生を歩ませたい親― - yuhka-unoの日記

    自分は実際のところ、不幸で不意な人生を歩んでしまっている。しかし、今更自分は不意な人生を歩んでしまったとは認めたくない。認めるのはあまりにも酷だ。自分の人生は幸せだったのだと思いたい。 このような親の中には、子供に自分と同じような人生を歩ませようとする親がいる。子供に自分と同じ人生を歩んで欲しい、そしてそれを子供自身が幸せだと思って欲しいという願望を持っている。そういう子供を見て、自分の人生は間違っていない、自分の人生は幸せだと確認したいのだ。 これは、子供を使った自己肯定だ。このような子供は、子供自身のためではなく親のための人生を歩まされる。その一生をかけて、親に対して「ほら、あなたと同じ人生を歩んでいる私は、こんなに幸せなんですから、あなたの人生も間違っていないし、幸せなんですよ」と言い続けるために存在させられる。 このような親は、子供が自分とは違う方法で、子供自身の人生を歩んでい

    他者を使った自己肯定―子供に自分と同じ人生を歩ませたい親― - yuhka-unoの日記
  • 至近距離の公正さ、という臨床課題 - Freezing Point

    「正しい側よりも、弱い側につきたい」――このロジックに徹底的に抑圧されてきたことにようやく気付いた。 正しいことを言っても、分析的に発言している時点で、「より強い立場にいるから」責められる。間違っているから責められるのではなく、むしろ「正しいから」責められる*1。 公正さというと、ふつうは制度設計論になっている。しかし社会参加への取り組みを細かく考えるなら、身近な関係での公正さがどうしても要る。親密圏において、あるいは職場において。この身近なマネジメントが徹底して不正義の反復になる、むしろ不正義こそが「正義」の名で語られる。そこへの批判が暗に禁止され、ひどい目に遭った人はひたすら我慢するしかない*2――この許しがたさを誰も言葉にできていない。 身近な関係に有益な合意は、かならずしも第三者的にはフェアではない。利権とナルシシズムの持ち合いにはそれでよくても、公の場所で検証されたらひとたまりも

    至近距離の公正さ、という臨床課題 - Freezing Point
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