この石ころが他の石ころではなくまさにこれであることの不思議 この簡略化は多分著者が否定するだろうが、私はまさにこれで氏の問題意識を言いかえできていると思う。侮辱の意図は微塵もなく、これで哲学的な問題提起になりえているとも思う それの形状であるとか、私の目の前に今あるとかいう外的要因をのぞいて、その石ころの存在そのものにとって、それがそれであることの根拠は何か。ほら、十分に深い問題でしょ? マクタガートの時間論に意識の問題と同型のものを見るということは、本当のところ、時間に特有のもの、意識に特有のものを問うているのではないということだ。一見それは現在の特殊性、自己の特殊性を浮き彫りにする問題設定のようだが、氏は執拗に現在(および自己)の相対化を求める。過去もその時点では現在であったし、未来もいずれ現在になる。意識に対する操作もそれに倣う いずれも理論の出発点は平等化された「現在」そして「私」