…という本が書けそうだ。P162において、永井はウィトの手法を評して以下のように言っている。「”ここ”は”私のいる場所”に過ぎない。だから、”私”が”ここ”にいることを驚くことはできない。だが、私が存在することそれ自体は違う。ウィトゲンシュタインの戦略は、いわば”私”を”ここ”化することにあり、”私が存在する”をトートロジー化することである」。いやいや、「私が存在することそれ自体」も同じじゃないですか。私っていうのはどこまでも「私」という風に「」や””で括られてなきゃいけない。「単位が実在する」って意味わからないでしょ。 また、永井はウィトの戦略について「疑う余地のない一面の真理が含まれている」とする一方で、こうも言っている。「しかし別の(”ここ”化できない)他の側面を取り逃してもいる。もし”私”という語がなければ、”ここ”を使って”私”の場合と同じ形而上学的驚きを表現することができたはず
この石ころが他の石ころではなくまさにこれであることの不思議 この簡略化は多分著者が否定するだろうが、私はまさにこれで氏の問題意識を言いかえできていると思う。侮辱の意図は微塵もなく、これで哲学的な問題提起になりえているとも思う それの形状であるとか、私の目の前に今あるとかいう外的要因をのぞいて、その石ころの存在そのものにとって、それがそれであることの根拠は何か。ほら、十分に深い問題でしょ? マクタガートの時間論に意識の問題と同型のものを見るということは、本当のところ、時間に特有のもの、意識に特有のものを問うているのではないということだ。一見それは現在の特殊性、自己の特殊性を浮き彫りにする問題設定のようだが、氏は執拗に現在(および自己)の相対化を求める。過去もその時点では現在であったし、未来もいずれ現在になる。意識に対する操作もそれに倣う いずれも理論の出発点は平等化された「現在」そして「私」
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