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一説では紀元前2500年からインド周辺で食べられていたというカレー。つまり人類は4500年に渡りカレーを食べ続けてきたことになる。日本では明治時代にイギリス料理として伝来して以来、いまや国民食のひとつにまで数えられるようになった。 ──はい、いったんストップして下さい! 危うく聞き流してしまいそうになるが、この「明治時代にイギリス料理として伝来したカレー」とは一体どんなものなのかご存じだろうか? 言うなれば『日本最古のカレー』である。実に興味深い……! ・レシピ本が現存する 奇跡的な話ではあるが『日本最古のカレーのレシピ』は現存する。記されているのは明治5年に発刊された「西洋料理通正・後編」なる書籍で、スープからデザートまで 110 項目にわたり西洋料理の基本レシピが記載されているのだ。 その中には2つ、 「コリードビーフ及モットン 粉を肉類にふりかける義」 「カリド・ウイル・ヲル・フアウ
データ解析技術を駆使して、もし「料理の独自発展度」を国ごとに数値化できたら、日本は最高レベルに入るのではないか。入ってきた料理をレシピに忠実に作るだけでなく、自分たちに合うように独自にカスタマイズしてきた事例を日本人はたくさん持っている。ラーメン、ケーキ、焼肉もそうだ。 もうひとつ、独自のカスタマイズという点で忘れてならない料理がある。「カレー」だ。 日本のカレーは、明治期の文明開化とともにイギリスから入ってきた。それから150年近く。カレー粉で作ったカレーソースに肉や野菜の具材を入れ、ライスにかけて食べる日本のカレーは、料理人にも家庭の主婦にも改良を加えられ、独自に発展してきたものだ。 なぜ、日本人は、そこまでカレーを独自に発展させることに執心してきたのだろう。この謎に深く迫れる本がこの8月に出た。水野仁輔著『幻の黒船カレーを追え』(小学館)だ。
日本における「カレー」が、本場のインド由来でなく、英国を経由して日本に伝わってきたというのは知られている話だ。明治初期、文明開化に伴い英国から西洋料理の1つとして伝わったとされている。 そうすると、日本のカレー史にとって「インドから英国にカレーが渡った」ということが重要な点の1つとなる。英国は1600年に東インド会社を設立し、インドに進出。1858年から1947年まではインドを植民地としていた。当然、この強い関係から、インドから英国に食文化が紹介されて、英国におけるカレーが広まったことにはなりそうだ。 だが、誰がどのようにそれをしたのだろうか。 「ヘイスティングがカリを英国へ」原典は百科事典 日本ではさまざまな媒体で、1772年頃、英国人ウォーレン・ヘイスティングズ(「ヘイスティングス」「ヘイスティング」の表記もあり)が、カレーの原料となるスパイスをインドから持ち帰ったと説明されている。ヘ
明大の公開講座「リバティ・アカデミー」で2005年に始まり、断続的に8回にわたり開いてきた同講座。今回はその集大成として「豪華講師陣が多角的にカレーに迫る」という。 カレーを単なる料理としてだけでなく「食文化としてのカレー」「歴史の中のカレー」「ビジネスとしてのカレー」という大きく3つの側面から取り上げる。全12回で土曜開講。 「食文化としてのカレー」の講座は、カレーという食べ物の魅力を再度見直す「カレー大全(1)」、カレー文化の魅力を再度見直す「カレー大全(2)」、「全国ご当地カレー」、神保町を中心に東京のカレー店の魅力を紹介する「東京カレー散歩」。 「歴史の中のカレー」の回は、「松本楼の歴史とカレー」「スパイスの歴史とカレー文化」「インド料理の中のカレー」「東南アジアの歴史と文化の中のカレー」の4つ。 「ビジネスとしてのカレー」は、「新宿中村屋の純印度式カレー」「レトルト食品の商品開発
日本で最初にカレー粉を作った会社はどこかご存知でしょうか?今からおよそ90年前。日本で初めてカレー粉を開発し発売した会社。それはエスビー食品です。 そのエスビー食品の赤い缶のカレー粉を一度ぐらいは見たことがあると思います。あのカレー粉の缶、よく見ると文字の後ろに建物が描かれています。 以前から「なんで国会議事堂?」と疑問に思っていて、ある日何気なく調べてみたところ、この国会議事堂風の建物のヒミツが判明したのです。どういうことなのか、エスビー食品の方に詳しく話を聞いてきました。そして、カレー粉の調合体験をやらせてもらいました。 1972年生まれ。元機械設計屋の工業製造業系ライター。普段は工業、製造業関係、テクノロジー全般の記事を多く書いています。元プロボクサーでウルトラマラソンを走ります。日本酒利き酒師の資格があり、ライター以外に日本酒と発酵食品をメインにした飲み屋も経営しているので、体力実
辛来飯を受け継いだ飯塚さん(中央)と宮田さん夫妻。旧店舗と同じ形の器に盛られ、味も見た目もかつてのままだ 昨年7月に閉店した東京都中央区銀座の老舗カレー店「ニューキャッスル」が、味を受け継いだ常連客の手で15日、旧店舗と同じ、銀座2丁目で復活する。 野菜と果物をじっくり煮込んだ独特の味との再会をかつての常連客も心待ちにしている。 同店は1946年開店。初代の柳田嘉兵衛さん(故人)が「辛来飯(からいらいす)」と名付けた、甘さの後にじわりと辛さが口に広がるカレーは、多くのファンを生んだ。95年に娘婿の宮田博治さん(71)が2代目として店を継いだが、木造の店舗は老朽化が進み、昨夏、惜しまれつつも、66年の歴史に幕を下ろした。 今回、3代目店主として店を復活させるのは、銀座のクラブで働いていた飯塚健一さん(35)。5年来の常連客で、ふらりと立ち寄って食べた「衝撃的な味」にとりつかれた。毎週のように
トップ > 愛知 > 11月23日の記事一覧 > 記事 【愛知】 <なごやオリエンタル物語>(下) カレー離れ、そして回帰 Tweet mixiチェック 2012年11月23日 現在の商品ラインナップを紹介する星野益八郎専務=稲沢市のオリエンタル営業本部で 先駆的な商品と、個性的なCMで業界の先頭を走ったオリエンタル。一九六六(昭和四十一)年には稲沢市に本社工場を移転し、増産態勢が整う。当時の年間売り上げは、二十五億円にも達した。 巻き返しを図る大手メーカーは、大量生産が容易な固形ルウへとかじを切る。食品研究家は固形化に使う硬化油を問題視し、「即席カレーは健康に害がある」と指摘した。粉末にこだわったオリエンタルは安全、とお墨付きを受けた。だが、それゆえ、「逆に固形化に踏み切ることもできなくなった」と山内正雄・研究開発室長(67)は言う。 消費者の間に「即席カレーは固形」との認識が広がると
トップ > 愛知 > 11月21日の記事一覧 > 記事 【愛知】 <なごやオリエンタル物語>(上) 高級な味を家庭料理に Tweet mixiチェック 2012年11月21日 日本初の即席カレーとして売り出された当時のパッケージ=オリエンタル提供 六十七年前の十一月、日本初の本格的な即席カレーが完成した。手掛けたのは名古屋市中村区に本社を置くオリエンタル。宣伝カーを使ったり、個性的なテレビCMを流したり、積極的なPRも成功。小さなメーカーがアイデアと熱意で、カレーが国民食となる道筋をつけた。日本経済が疲弊し、ものづくりの自信が揺らぐいま、同社の歩みから再生のヒントを探る。 (この連載は栗田晃が担当します) 終戦直後の一九四五(昭和二十)年秋、中村区椿町。闇市が立つ街の一角で、日本の食卓を変える研究が進められていた。 当時三十五歳の星野益一郎(ますいちろう)は、妻の好美とともに、小麦粉やカ
気どるな、力強くめしをくえ!「大衆食堂の詩人」といわれた、後期高齢ステージ4癌男、エンテツこと遠藤哲夫のブログ。 ちかごろ、丼物の歴史については、汁かけめしや芳飯からの発生や流れを説明するものがふえた。おれも、2007/05/10「5月10日発売『旅の手帖』6月号」に告知した寄稿では、そのように書いているし、本文のほうにも、そのような解説が見受けられた。 このばあい、難点が一つあって、室町期の芳飯については説明があっても、汁かけめしについては欠落しやすいことだ。それは、芳飯は、天皇や高級貴族が食べたもので文献にも明快に書かれているし、なにより権威主義におかされている世間では、天皇や高級貴族が食べていたとなると、通りがよい。だから、「芳飯」は汁かけめしの一種である、みそ汁ぶっかけめしの仲間なのだ、といった説明はないまま、イメージのよい芳飯の話に偏りがちだ。 しかし、それでも、丼物という料理を
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