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WWFに関するkowyoshiのブックマーク (260)

  • 〝ロック様〟ドウェイン・ジョンソンが米大統領選に本気で出馬検討 | 東スポWEB

    米経済誌「フォーブス」による「世界で最も稼いだ俳優」で2年連続1位のドウェイン・ジョンソン(48)が将来、米大統領選に出馬することを真剣に考えていると米紙USAトゥデーに明かした。 ドウェインは「もし国民がそう願うなら、将来大統領選に出ることも考えている。冗談とかじゃなくて真剣にね。すべては国民次第。それまで待つよ。人の意見を聞いて」と同紙に語った。 実はドウェイン、現地時間16日から米NBCで始まるシチュエーションコメディー「ヤング・ロック」で11年後の2032年、米大統領選に立候補するという設定になっているのだ。 このドラマはドウェインの半生をコミカルに描いたもので、タイトルはWWF(現在はWWE)のプロレスラー時代のニックネーム〝ザ・ロック〟から取ったものだ。 1月下旬に公開されたドラマの予告編には「ドウェイン・ジョンソンを大統領に!」と書かれたプラカードを掲げる民衆や、出馬したドウ

    〝ロック様〟ドウェイン・ジョンソンが米大統領選に本気で出馬検討 | 東スポWEB
    kowyoshi
    kowyoshi 2021/02/16
    州知事レベルではプロレスラー出身はいたけれど…
  • 開催から30年 WWF・新日本・全日本が手を組んだ奇跡の大会「日米レスリングサミット」を振り返る

    今からちょうど30年前の1990年(平成2年)4月13日、東京ドームにおいて画期的なプロレスイベントが実現した。WWF(現WWE)が全日プロレス、新日プロレスとタッグを組み、3団体共催「日米レスリングサミット」を開催したのである。 今からちょうど30年前の1990年(平成2年)4月13日、東京ドームにおいて画期的なプロレスイベントが実現した。WWF(現WWE)が全日プロレス、新日プロレスとタッグを組み、3団体共催「日米レスリングサミット」を開催したのである。 前年の89年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御され、時代は昭和から平成に移行した。年号が変わっただけではなく、プロレス界も当時は大きな変革の時期を迎えていた。4月24日には新日が東京ドーム初進出。共産圏のソビエト連邦(現ロシア)からレッドブル軍団をプロレスデビューさせるなど、ここからさまざまな壁が取り払われていく。パイオ

    開催から30年 WWF・新日本・全日本が手を組んだ奇跡の大会「日米レスリングサミット」を振り返る
    kowyoshi
    kowyoshi 2020/04/13
    懐かしい
  • 名字と動物が一緒になる電子印鑑/印鑑メーカー|WITH STAMP

    あなたの名字の動物はなんでしょうか?WITH STAMPでは、あなたの名字と動物が一緒になった電子印鑑/印鑑を作ることができます。ビジネスシーンでは、電子印鑑として、アイコンとして、さらにはメールの署名欄に入れたり…様々な使い方が!一方で、実物のはんこを重宝されている方には、環境に最大限配慮した素材を使用した、実物のはんことしてお買い求めいただけます。

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    kowyoshi
    kowyoshi 2017/06/28
    WWEではありません
  • ビンス・マクマホンが“世界征服”に成功した日――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第336回(2001年編)【完結】 | 日刊SPA!

    2001年3月26日、それはビンス・マクマホンがついに“世界征服”を実現させた日だった。月曜夜の連続ドラマ“マンデー・ナイトロ”は最終回を迎え、WCWも12年5カ月の歴史に終止符を打った(写真はWWEオフィシャル・マガジン2001年6月号表紙より) それはビンス・マクマホンがついに世界征服に成功した日だった。 WWEのライバル団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング=ジョージア州アトランタ)は、2001年3月26日、フロリダ州パナマシティー・リゾートで開催されたテレビ撮りをもってその12年5カ月の短い歴史にピリオドを打った。 月曜夜のTVショー“マンデー・ナイトロ”の番組オープニングと同時にビンスの自信に満ちた笑顔が画面いっぱいに映し出された。 「WCWの運命……その運命は、わたしの手のなかにある」 WCWの“マンデー・ナイトロ”(TNT=ターナー・ネットワーク・テレビジョン)

    ビンス・マクマホンが“世界征服”に成功した日――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第336回(2001年編)【完結】 | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2017/04/21
    でもまあ、このあとビンスは動物団体の方のWWFに負けて、今のWWEになるのですが…ってそれはヤボか
  • ロックとトリプルHのライバル物語・序章――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第243回(1997年編) | 日刊SPA!

    大型ルーキー、ロッキー・メイビアがハンター・ハースト・ヘルムスリーを下しIC王座を獲得。その後、ロッキーはザ・ロック、ヘルムスリーはトリプルHとして一世を風びすることになる(写真はWWEオフィシャル・パブリシティー・フォトより) “大型ルーキー”ロッキー・メイビアがハンター・ハースト・ヘルムスリーを下してインターコンチネンタル王座を獲得したのは、2.13特番“サーズデー・ロウ・サーズデー”(1997年2月13日=マサチューセッツ州ローウェル、観衆2347人、興行収益4万1218ドル)。ロックにとっては、前年11月の“サバイバー・シリーズ”におけるWWEデビューからわずか3カ月後のスピード出世だった。 ハンター対メイビア、つまりトリプルH対ロックのインターコンチネンタル選手権は、2.13特番“木曜ロウ”(全米生中継のパイロット版)のオープニング・マッチにレイアウトされていた。この時点でのトリ

    ロックとトリプルHのライバル物語・序章――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第243回(1997年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/12/15
    チャイナのデビューのこの辺か
  • ブレット王座奪回―24時間後に王座転落の怪――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第242回(1997年編) | 日刊SPA!

    2.16PPV「イン・ユア・ハウス/ファイナル4」で王座決定戦4ウェイ・イリミネーション・マッチを制し、WWE世界王座奪回に成功したブレット・ハートは、翌日の「マンデーナイト・ロウ」でセッドに敗れ“24時間”で王座を失った(写真はブレット・ハートがTVシリーズ『ロンサム・ダブ』に出演したさいのオフィシャル宣材フォトより) WWEは“迷走の時代”をさまよっていた。WWEの“マンデーナイト・ロウ”とWCWの“マンデー・ナイトロ”の毎週月曜夜の番組視聴率争いは、1996年6月13日から1998年4月6日まで83週間連続で“ナイトロ”がリード。1997年はWWEにとってひじょうに屈辱的な1年だった。 2.16PPV“イン・ユア・ハウス13/ファイナル4”(テネシー州チャタヌガ、UTCアリーナ=観衆6399人、興行収益=7万6762ドル))で“ヒットマン”ブレット・ハートがWWE世界ヘビー級王座決定

    ブレット王座奪回―24時間後に王座転落の怪――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第242回(1997年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/12/15
    ジム・ロスはこの頃か
  • ブレット問題発言「こんな会社、やめてやる」――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第241回(1997年編) | 日刊SPA!

    「ロイヤルランブル」でのレフェリー誤審から「レッスルマニア13」のメインイベント出場権を逃したブレット・ハートはTVインタビューで「こんな会社、やめてやる」と問題発言(写真はWWEオフィシャル・マガジン表紙より) “ロイヤルランブル96”(1996年1月19日=テキサス州サンアントニオ、アラモ・ドーム)のカオス状態のエンディングは、そのあとにつづく大きなドラマのプロローグに過ぎなかった。 WWEは1月20日、21日の2日間、テキサス州ボウマント、ルイジアナ州ラフィエットで“マンデーナイト・ロウ”2週分とシンディケーション番組“スーパースターズ”2週分の集中TVテーピングをおこなった。 前夜の“ロイヤルランブル”でレフェリーのミス・ジャッジによって時間差式変則30人バトルロイヤルの優勝を逃したばかりか、3.23“レッスルマニア13”のメインイベント出場権とWWE世界ヘビー級王座への挑戦権を失

    ブレット問題発言「こんな会社、やめてやる」――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第241回(1997年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/12/15
    あったなあ
  • ストーンコールド“ロイヤルランブル”初優勝――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第240回(1997年編) | 日刊SPA!

    30選手出場・時間差式変則バトル「ロイヤルランブル」は大ブレイク秒読み状態のストーンコールドが初優勝。しかし、レフェリーの誤審が発覚し、連続ドラマは意外な方向へ(写真はWWE・RAWマガジン1996年10・11月合併号表紙より) それは“スター誕生”の歓喜のフィナーレというよりは混乱の幕切れといったほうがより正確なラストシーンだった。 WWEの1997年のPPV第1弾、1.19“ロイヤルランブル”(テキサス州サンアントニオ、アラモ・ドーム=観衆6万477人)のダブル・メインイベント第1試合にラインナップされた30人出場・時間差式変則バトル“ロイヤルランブル”は、“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが初優勝を飾った。 出場全30選手(入場順)は以下のとおり。(1)クラッシュ(2)アーメッド・ジョンソン(3)レーザー・ラモン(リック・ボーグナー)(4)フィニアス・ガドウィン(5)“ストー

    ストーンコールド“ロイヤルランブル”初優勝――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第240回(1997年編) | 日刊SPA!
  • “ロイヤルランブル”HBKが王座奪回――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第239回(1997年編) | 日刊SPA!

    テキサス州サンアントニオのアラモ・ドームに6万人超の大観衆を動員した「ロイヤルランブル96」。主役はサンアントニオ生まれのホームタウン・ヒーロー、ショーン・マイケルズだった(写真はWWEロイヤルランブル1996オフィシャルPPVポスターより) WWEの1997年のPPV第1弾、1.19“ロイヤルランブル”はテキサス州サンアントニオのアラモ・ドームに6万477人という記録的な大観衆を動員した。 この時点でのWWE、というよりもアメリカ国内におけるプロレス興行の観客動員記録は、ハルク・ホーガン対アンドレ・ザ・ジャイアントのエポックメーキング的なシングルマッチがおこなわれた“レッスルマニア3”(1987年3月29日=ミシガン州デトロイト、ポンティアック・シルバードーム)の――WWEによる公式発表は9万3173人――7万8000人。 第2位はホーガンの“引退マッチ”とリック・フレアー対“マッチョマ

    “ロイヤルランブル”HBKが王座奪回――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第239回(1997年編) | 日刊SPA!
  • AOWの試作品“ショットガン・サタデーナイト”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第238回(1997年編) | 日刊SPA!

    新番組「ショットガン・サタデーナイト」はAOW路線の試作品。番組キャスターはビンス・マクマホンとサニーがつとめた(写真はWWE・RAWマガジン表紙より) WWEのAOW(アダルト・オリエンテッド・レスリング)路線は、1997年1月、新番組“ショットガン・サタデーナイト”のプロデュースで格的にそのスタートを切った。 AOW路線とはかんたんにいえばオトナ向けのプロレスの提案だった。ライバル団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)はケビン・ナッシュ、スコット・ホール、ショーン・ウォルトマンのウルフパック派閥、ロディ・パイパー、テッド・デビアスら大物の引き抜き、ハルク・ホーガンのまさかのヒール転向と“新団体”nWo発足で大ブームを巻き起こしつつあった。 WWEとWCWの2大メジャー団体による“月曜TVウォー時代”のなかで、1997年はWWEがもっとも苦戦を強いられた1年だった。 W

    AOWの試作品“ショットガン・サタデーナイト”――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第238回(1997年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/12/15
    サニーみたいなの、最近は見ないような。みんなアスリートっぽいような。
  • シャッフルされた長編ドラマ=アテテュード――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第237回(1996年編) | 日刊SPA!

    ミニPPV「イン・ユア・ハウス12」のメインイベントは、サイコ・セッド対ブレット・ハートのWWE世界戦。ブレットが戦列復帰したとたん、ライバルのショーン・マイケルズはヒザの故障を理由に“欠場”を希望(写真は「イン・ユア・ハウス12」PPVオフィシャル・プログラム表紙より) ショーン・マイケルズの突然の王座転落と“大穴”サイコ・セッド政権誕生、そして“ヒットマン”ブレット・ハートの8カ月ぶりの戦列復帰でどうやらWWEの長編ドラマはいったんシャッフルされた。 1996年の最後のPPV、12.15“イン・ユア・ハウス12/イッツ・タイム”(フロリダ州ウエスト・パーム・ビーチ)は、ウエスト・パーム・ビーチ・オーデトリアムに5708人の観客を動員した。 WWEはこの年、“ビッグ5”といわれる“ロイヤルランブル”“レッスルマニア”“キング・オブ・ザ・リング”“サマースラム”“サバイバー・シリーズ”の5

    シャッフルされた長編ドラマ=アテテュード――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第237回(1996年編) | 日刊SPA!
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    kowyoshi 2016/12/05
    WWFアティチュードビギニング
  • “金の卵”ロッキー・メイビアがデビュー ――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第236回(1996年編) | 日刊SPA!

    大型ルーキー、ロッキー・メイビアこと“ザ・ロック”ドゥエイン・ジョンソンが「サバイバー・シリーズ」でWWEデビュー(写真はWWEオフィシャル・パブリシティー・フォトより) それは衝撃のデビュー戦というよりは、まるで新しいアーティストのプロモーション・ビデオのようだった。大型ルーキー、ロッキー・メイビア――のちの“ザ・ロック”ドゥエイン・ジョンソン――は“サバイバー・シリーズ96”(1996年11月17日=ニューヨーク州ニューヨーク、マディソン・スクウェア・ガーデン)の第3試合で“殿堂”ガーデンのリングに登場してきた。 カード編成はメイビア&マーク・メロ&ジェーク“ザ・スネーク”ロバーツ&バリー・ウィンダム対ジェリー“ザ・キング”ローラー&ハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)&クラッシュ&ゴールダストの4対4イリミネーション・マッチ。 1目は“ヘビ男”ロバーツが10分1秒、元祖D

    “金の卵”ロッキー・メイビアがデビュー ――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第236回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/12/03
    のちのハリウッドセレブである
  • “サバイバーの怪”HBKが王座転落!――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第234回(1996年編) | 日刊SPA!

    “HBK”ショーン・マイケルズが大穴サイコ・セッドに敗れWWE世界王座から転落。ビンス・マクマホンは“問題児”セッドをチャンピオンベルトをめぐる闘いに起用した(写真はWWEオフィシャル・マガジン表紙より) それはやや唐突な新チャンピオン誕生シーンだった。“ハートブレイク・キッド”ショーン・マイケルズが“伏兵”サイコ・セッドに敗れ、WWE世界ヘビー級王座を失った。 王座移動ドラマの舞台となったのは、11.17PPV“サバイバー・シリーズ96”マディソン・スクウェア・ガーデン大会(ニューヨーク州ニューヨーク、観衆=1万8647人、興行収益=52万9522ドル)。 前日(11月16日)、マンハッタンのマリアット・マーキス・ホテルでおこなわれた“ホール・オブ・フェーム96”授賞パーティーとのカップリングで開催された同イベントは、2日間の共通チケットが125ドルというやや高めの料金設定になっていた。

    “サバイバーの怪”HBKが王座転落!――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第234回(1996年編) | 日刊SPA!
  • ブレット対ストーンコールド=序章――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第235回(1996年編) | 日刊SPA!

    ブレット・ハートが“レッスルマニア12”でのWWE世界王座転落―長期欠場をへて、じつに8カ月ぶりに戦列復帰。売り出し中の大型ヒール、ストーンコールドを新ライバルに指名した(写真は「サバイバー・シリーズ」オフィシャルPPVポスターより) WWE世界ヘビー級王者ショーン・マイケルズが“大穴”のサイコ・セッドに敗れるという突然の王座移動劇が起きた“サバイバー・シリーズ96”(1996年11月17日、ニューヨーク州ニューヨーク、マディソン・スクウェア・ガーデン=1万8647人)のもうひとつのメインイベントは、“ヒットマン”ブレット・ハートの約8カ月ぶりのカムバック戦。“ストーンコールド”スティーブ・オースチンとの初対決だった。 3.31“レッスルマニア12”以降、全米ツアーから姿を消していたブレットは、“サバイバー・シリーズ96”での戦列復帰をまえに10.21“マンデーナイト・ロウ”フォートウェイ

    ブレット対ストーンコールド=序章――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第235回(1996年編) | 日刊SPA!
  • “二代目”レーザー・ラモン&ディーゼル出現――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第233回(1996年編) | 日刊SPA!

    ナッシュ&ホールのWCW移籍後、WWEはディーゼルとレーザー・ラモンの“二代目”をプロデュース。しかし、ファンの反応は冷ややかだった(写真はレーザー・ラモンのWWEオフィシャル・パブリシティー・フォトより) レーザー・ラモンがおなじみのテーマ曲にのって入場ランプを歩いてくると、ひとりの少年ファンが場外フェンスから身を乗り出して「お前はニセモノだ!」と叫んだ。 それは禁断の“著作権キャンペーン”だった。1996年9月、WWEは月曜夜のプライムタイム番組“マンデーナイト・ロウ”にレーザー・ラモンとディーゼルの“二代目”を正式にデビューさせた。 ラモン、ディーゼルの衣装を身につけてリングに登場したのは、日ではFMWと新日プロレスで活躍したビック・タイトン(リック・ボーグナー)と数カ月まえまで“悪い歯医者さん”アイザック・ヤンカムを演じていたグレン・ジェイコブス(のちのケイン)のふたりだった。

    “二代目”レーザー・ラモン&ディーゼル出現――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第233回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/11/30
    これは覚えてないや
  • ビンス・マクマホン発案のAOWってなに?――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第232回(1996年編) | 日刊SPA!

    夏のスーパーイベント“サマースラム”をショーン・マイケルズ対ベイダーのタイトルマッチで乗り切ったWWEは、秋の新学期シーズンの新路線として観客層の拡大、もっと正確にいえばテレビ視聴者の“多層化プロジェクト”に着手した。 ビンス・マクマホンが発案した新路線はAOW(アダルト・オリエンテッド・レスリング)。ロック・ミュージックにAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)というサブ・ジャンルとその主張があるように、WWEのプロレスのなかに“ちょっとオトナ向けのコンテンツ”を提案しようという試みだった。 1996年当時のアメリカのプロレス・シーンはWWEとWCWの2大メジャーによる事実上の市場独占時代で、このメジャー2団体に対するオルタナティブとしてインディーよりも大きく、メジャーよりはちいさいECW(エクストリーム・チャンピオンシップ・レスリング=ポール・ヘイメン代表)が存在していた。 WWEと

    ビンス・マクマホン発案のAOWってなに?――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第232回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/11/30
    今度のアメトーーク、WWE芸人の大半がこの頃のWWF芸人というね
  • “サマースラム96”HBK対ベイダー――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第231回(1996年編) | 日刊SPA!

    真夏のスーパーイベント「サマースラム96」のメインイベントはショーン・マイケルズ対ベイダーのWWE世界戦。“外様”ベイダーがWWEのメインイベンターの座をゲットした(写真は「サマースラム」PPVオフィシャル・プログラム表紙より) いまから20年まえの“サマースラム”(1996年8月18日=オハイオ州クリーブランド、ガンド・アリーナ、観衆1万7000人)のメインイベントがショーン・マイケルズ対ベイダーのWWE世界ヘビー級選手権だったという事実はちょっと意外な感じがする。 “たけしプロレス軍団”TPGの刺客として1987年(昭和62年)12月に新日プロレスのリングに初登場したビッグバン・ベイダーは、いわゆるニッポン育ちのガイジン・レスラー。新日プロレスと“絶縁”したあとはUWFインターナショナルに移籍し、いわゆるUWFスタイルをアダプトした。 ベイダーはプロレスラーとしての実力もさることな

    “サマースラム96”HBK対ベイダー――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第231回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/11/30
    ベイダー…なんか余命わずかだと宣告されていたねえ
  • ストーンコールド“AUSTIN3:16”生誕!――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第229回(1996年編) | 日刊SPA!

    それがプロレス史に残る歴史的なワンシーンだったことに――ライブの観客もPPV視聴者も、そしてバックステージにいたレスラー仲間たちさえも――ほとんどだれも気がつかなかった。 “ストーンコールド”スティーブ・オースチンは、インタビュアーのドク・ヘンドリクス(マイケル・ヘイズ)が差し出したマイクに向かって「“オースチン3.16”、ジェーク“ザ・スネーク”ロバーツをこてんぱんにしてやったぜI just whipped his ass」とまくし立てた。 “3.16”(スリー・シックスティーン)とは、どうやら新約聖書の“3章16節”を意味していた。 WWEの6.23PPV“キング・オブ・ザ・リング”(1996年6月23日、ウィスコンシン州ミルウォーキー、ザ・メッカ=観衆1万3000人)は、この年からスタートしたPPV年間12大会スケジュールの折り返し地点。ショーン・マイケルズを新しい主役としたポスト“

    ストーンコールド“AUSTIN3:16”生誕!――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第229回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/11/30
    せやったのか>“3.16”生誕のほうがnWoの出現よりも先だったという史実はあまり知られていない
  • WWEがターナー・グループとWCWを提訴――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第228回(1996年編) | 日刊SPA!

    スコット・ホールとケビン・ナッシュの「WCWナイトロ」デビューから数日後、WWEは商標法違反でWCWを提訴した(写真はWWEオフィシャルDVD「スコット・ホール・ストーリー」カバー写真より) “元ディーゼル”ケビン・ナッシュと“元レーザー・ラモン”スコット・ホールのWCWデビューをテレビの画面で目撃したビンス・マクマホンとWWEのリアクションはすばやかった。 タイタン・スポーツ社(WWEの親会社=当時)は、1996年6月20日付でTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)、WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)、エリック・ビショフWCW副社長の3者(2法人と1個人)を商標法違反としてコネティカット州地方裁判所に提訴した。 訴状に記された告訴内容は以下の4件。 ①ランハム法=米商標法に基づく不正競争違反(虚偽広告、紛らわしい商標・企業名などの使用、知的所有権の侵害、模

    WWEがターナー・グループとWCWを提訴――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第228回(1996年編) | 日刊SPA!
  • “あの男たち”がWCWマンデー・ナイトロ乱入――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第227回(1996年編) | 日刊SPA!

    “元レーザー・ラモン”スコット・ホールと“元ディーゼル”ケビン・ナッシュがWCWに移籍。月曜夜のTVショー「マンデー・ナイトロ」に登場した(写真は米専門誌「レッスル・アメリカ」1996年秋季号表紙より) リングネームのない“バッド・ガイ”レーザー・ラモン、つまりスコット・ホールがWCWの月曜夜のTVショー“マンデー・ナイトロ”にその姿を現したのはWWE退団からわずか8日後のことだった(1996年5月27日=ジョージア州メーコン)。 ホールとその相棒ディーゼルことケビン・ナッシュのWWEでの最後の試合はマディソン・スクウェア・ガーデンでのハウスショーだった(同5月19日)。その日、ナッシュはWWE世界ヘビー級王者ショーン・マイケルズ、ホールはハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)とそれぞれシングルマッチで対戦した。 エスケープ方式の金網マッチでおこなわれたタイトルマッチは、王者ショー

    “あの男たち”がWCWマンデー・ナイトロ乱入――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第227回(1996年編) | 日刊SPA!
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/11/30
    当時、週プロやゴングで記事を読んで「うおお」と思ったなあ