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論理に関するDoenのブックマーク (8)

  • 知識と論理の不足をレトリックで誤魔化している人にまんまと乗せられていることを認められない「バカ」は自らの心を守るために騙され続ける - 非行型愚夫の雑記

    タイトルだけで十分。 それでも敢えて付け加えれば、最初からレトリックで「逃げ」を打っている無知と非論理の産物である暴論に対して、ただ、その無知と非論理を指摘しても「釣れた」ということになってしまうこともそういう「バカ」には分からない。 「フィクション」を逃げ道とする論法は相手が反応してもスルーしても「勝利」を得られる程度の低い「無敵論法」であることは論理的に明らかと思うんですけどね。 まあ、色々なことが人を「盲目」にしてしまうものだなあと思います。「恋は盲目」と同じで「盲目」でいる方が「幸せ」だからなんでしょうけど。 この手の人々の説得は、歴史修正主義や水伝などの似非科学にはまってしまった人の説得が困難なのと同様、「幸せ」が壊されることに対する相手の拒否反応を乗り越えなくてはならないので非常に困難。

    知識と論理の不足をレトリックで誤魔化している人にまんまと乗せられていることを認められない「バカ」は自らの心を守るために騙され続ける - 非行型愚夫の雑記
    Doen
    Doen 2008/09/29
  • 演繹 - Wikipedia

    演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。 帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。 具体例[編集] 例えば、物体が落下するとき、重いものほど速く落ちるというのがかつての常識であった。これに対してガリレオ・ガリレイは、詳しい実験から物体の落下時間が質量に比例するものではないことを示した。これは帰納的な判断である。また、ここから彼は物体の落下速度は質量にかかわらず一定だろうと判断した。これはアブダクション(仮説形成)である

    Doen
    Doen 2008/05/28
  • 価値否定論法 - 非行型愚夫の雑記

    価値否定論法は対象の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法。 主に対象の「正しさ」を否定できなくてもそれを認めたくないときに使われます。 認知的不協和という人間の心理構造により非常に強い効果を持ちうる論法です。 認知的不協和とは相容れない複数の認知を抱えたときに生じる心理的緊張状態(例えば不快感)のこと。 人間は認知的不協和を解消するために自分の認知の方を変更してしまいがちです。(認知的不協和理論) 例えばイソップ寓話の「狐と葡萄(ブドウ)」(酸っぱい葡萄) べたいブドウを手に入れられなかったキツネは「あのブドウは酸っぱい」と思うことにしました。 「あのブドウをべたい」という認知(変更可能)と「あのブドウを手に入れることはできない」という認知(変更不可能もしくは変更困難)の不協和に対し、前者を「あのブドウは酸っぱい(からべたいとは思わない)」と変更することで「あのブドウ

    価値否定論法 - 非行型愚夫の雑記
    Doen
    Doen 2008/04/12
  • 「観客席」への補注 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    ※ 末尾に追記あり+idトラックバックを忘れていたところを追加。(2008/04/06 09:40) 「観客席なんかありません」の記事について、いくつかの注意と、ブクマコメントへのレスなどを書き留めておく。 こういう話をしていると、いつも「自分のことで手いっぱい」という人のことが指摘され(これは分かる)、そういう人は「観客席」にいるしかないではないか、というような意味のことで反論されたりする(これは分からない)。「自分が生きることで手いっぱい」という人については、そのように手いっぱいであること自体が「抑圧と侵害」であり、であるなら、その人は自分が生き延びるためにいっぱいいっぱいの努力をしている(せざるをえない)ということが、つまりは「観客席にはいられない当事者」ということであり、その人自身が生き延びるということ、それ自体が、大事な戦いだと、僕は考えるのだが。それは、チベットで弾圧される誰か

    「観客席」への補注 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • 論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁 - 非行型愚夫の雑記

    今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上からのコメント欄の続き。 だから最初からずれてるんだって。 ちゃんとエントリ読んでます?冒頭に『一応「左派」の一人として』と書いてあるの、見えませんか? 俺は「外部」から「左派の失策」だと言ってるんじゃない。「内部」から「左派の失策」だと言ってるの。 上で俺が「左派」というときは、「左派=あいつら」ではなく「左派=俺達」なんだよ。「俺達ももっと上手くできたんじゃないか?」と言ってるの。 読みましたが、それが何だというのでしょうか。 私が批判しているのはinumash氏の記事が結果として(意図的であろうとなかろうと)論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁として作用するからです。 inumash氏が左派の一人として論じるのはかまいませんが、それをもって、私の批判までもポジショントークに変換

    論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁 - 非行型愚夫の雑記
  • inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    inumash氏からのトラックバック。>http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080401/p1 論理の筋道の問題と運動論の問題を摩り替えている、というところは、あちこちで指摘されているとおりだけど、ではなぜこれを摩り替えてはいけないのかというところを付け加えておく。つまり、この種のすり替えは、「運動論として」ダメなのだ、ということ。 だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。 その「左派に期待している/いた人」ってのは、一体誰のことで、今、何をしているんだ?「期待している」というからには、外部にいるんだから、左派じゃないんだよな。かつ、「左派を叩きたいだけの人」、つまり敵でも

    inumash氏へ、「観客席なんかありません」 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • シニシズムの放棄について (Dead Letter Blog)

    mojimojiさんの一連のEntry周辺の議論。 排外主義者、あるいは日曜サヨク 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その4 論点は2つ。 ・ネット右翼がなぜ中国のチベット支配を批判できるのか? ・中国のチベットへの抑圧を批判する為に左翼・人権派とネット右翼・保守派は共闘すべきか? 前者について。左翼・人権派がチベット問題を「ネット右翼が満足するようなかたちでは」取り上げていないこととチベット問題に類する人権問題に関してネット右翼がどのような態度を取ってきたかということは同列に並べられるべきではない。 仮に左翼や人権派のチベット問題への関心が相対的に低かったとしよう。しかし人間が有限的存在であって、あらゆる問題へコミットすることはできない以上、それは矛盾とまでは言えない。もしチベット問題について左翼・人権派がどの

    Doen
    Doen 2008/04/01
    『ではチベットに関してはなぜ「中国政府はチベットに良いこともしてあげているから抑圧しているとは言えない」と主張しないのだろうか?』
  • 排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    さて、見つけてしまったので、「倫理の一貫性」(@extra innings)という記事について反論しておく。チベット問題を語っているときに、パレスチナはどうなのだ、アイヌはどうなのだ、という論点をぶつけられたとして、それをどう理解するか、という問題。「排外主義者、あるいは日曜サヨク」の続き。 iteau氏の二つの記事について ↑でid:kurotokage氏が提示したリンク先の記事を書いた人がそもそも倫理の一貫性を行動として示してきたか非常に疑問があるのだが、id:kurotokage氏が仮に倫理の一貫性を問うのだとすれば、その対象の取捨選択は恣意的ではあってはならないはずである。 言うまでもなく、それらは同様に抑圧と侵害の問題系なのであり、「すべてが問題である」と述べるのは当たり前のことである。ただし、人の使える時間は無限ではないから、一人で何もかもについて発言し、行動しつづけることは無

    排外主義者、あるいは日曜サヨク、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    Doen
    Doen 2008/03/30
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