まあ釣りの部類だけど⇒はてなブックマークを見ていたら、気分が悪くなってきました。 この手の議論はもう意味ないっていうか、またぞろ、ネガコメなんて問題ない、finalventのネガコメ5か(おまえら洒落わかんないのな)、はてな村はどこ、といったフェイクな議論が、おなじみのメンバーで繰り広げられるだけなのであります。もういいよ。 「オレなんかネガコメ受けてもどってことない」人が、それほど読むにあたいするエントリ書いているのかよ的疑問はスルーっと。
そろそろみなさん棺桶に片足状態になってきた。 そのあと、全共闘世代というかそのあたりの左翼さんたちがまだまだ頑張るというか、企業から離れて老後にがんばるのかもしれない。 私の世代(今50歳くらい)になるとある水準の知識人は基本的に左翼だ。私の世代から10歳下になるとそういう昭和の名残の左翼は減ってきて、いわば奇妙なバックラッシュになる。バックラッシュというのは左翼というよりある種の憎悪のような異質な何かだ。 昭和の左翼とは、実は、非モテであった。 というか、モテのためにあった。階級や産業から解放されてちょっと気取ってダンパ(死語)みたいな。そしてそれが全共闘世代にコピーされてフリーセックスみたいになった。多数はモテたいから左翼になったし、左翼になることは生きることの齟齬みたいのを覆ってくれた。 私の世代くらいは知識人であることを意味したがモテではなくなりつつあった。貧乏はモテないという時代
⇒YouTube - 或るはてなブックマーカーの挑戦 しかし、デープ。 ってか、何故ネタフル? エンディングに栗先生が出てくるのは、script by kurimax つうこと? ちなみに最近の傑作ブクマ・コメント3 ⇒はてなブックマーク - ラージアイ・イレブンのブックマーク / 2006年08月12日 404 Blog Not Found:"Crowds"は「みんな」じゃない みんなの知恵はその多様性に比例して強くなる。原題のCrowdsという語を「みんな」ではなく「群集」と訳せというイチャモンをつけているが意味不明。共通点が無くてもみんなは「みんな」だろう。 ⇒はてなブックマーク - ARTIFACT BOOKMARK / 2006年08月11日 煙 - 川上直子(Soreda)氏の妄想とヘイトスピーチ [トムとジェリー]一度やりとして、この人は相手しないほうがいいいのでは…と判断し
コメント欄⇒豪一郎がゆく: 鏡の法則(ハンカチを用意して読め!) コメント ミクシィに入ってる人にしか見えませんが参考までに。 「鏡の法則」という書籍の著者、野口 嘉則 氏 http://mixi.jp/show_friend.pl?id=1119346 その野口氏が現時点で参加しているコミュニティ「ネズミ・コーチング100万人伝染プロジェクト」 http://mixi.jp/view_community.pl?id=473606 「鏡の法則」コミュニティ http://mixi.jp/view_community.pl?id=607640 コミュニティ開設が今年の2月ですから、随分前からSNSでネズミの子どもを育て、書籍出版というトリガーで一気にファンを宣伝活動へ走らせたと推測出来ますね。 こんなよくある「イイ話」がここまでチェーン化するのはおかしいと思ってましたが、事前の下準備があって
うひゃ、これってブログが起源だったのか。 ⇒幸せ成功力を日増しに高めるEQコーチング!毎日読めば目標達成力を多角度から強化できます! しかも⇒幸せ成功力を日増しに高めるEQコーチング!毎日読めば目標達成力を多角度から強化できます!:アマゾン1位を記念してキャンペーンを延長します! <セミナー情報> 蓮屋有楽斎さんの主催のNLPセミナーが、福岡であります。 講師は、私の知人でもある菊池和郎さんです。 5月20日(土)第2回NLP入門セミナー 5月21日(日)第2回NLP上級パワーコミュニケーションセミナー NLPだし。 ⇒NLP site:coaching.livedoor.biz - Google 検索 ま、冷静に見れば、野口嘉則=NLPかどうかはよくわからないし、ちょっと別の起源もありそうだが……このあたりはまた別の機会に追求するかも。以下、紀伊国屋より。 野口嘉則[ノグチヨシノリ] 1
⇒煙 - どうして通州事件なら構わないのか 町山さんは、虐殺の一般性・人間性に着目し、別に関東大震災の朝鮮人虐殺と特定されないと主張している。 だから、それなら、通州事件でもいいわけだな、という洒落だよ。 実際、町山さんの議論では、全ての虐殺は同じだから、そうなるでしょ。町山さんの議論を読んでいるか? そこは町山さんが優れた見識を持つ点でもある。加害と被害を止揚する視点は評価に値する。 しかし、追従者に私は疑念を持った。 日本人が加害か被害かが隠された問題ではないのかと疑念を抱いた上での洒落だ。 こんな洒落のわからん話が出てくるのは、案の定といったところか。 もし日本人が加害か被害かが隠された問題でなければ、そりゃ悪い洒落だな、で終わるはずだ。だが、そうではなかった。 町山さんもそうした問いは出していない。 もちろん、通州事件である必要はない。関東大震災の朝鮮人虐殺である必要もないのと同じ
最初から議論ではなく旗幟のみが問われる問題――それこそが疑似問題なのだが――に関わるのはうんざりした気持ちになるのだが、やはり少しばかり言及しておこうと思う。何について? その前にそう思うに至ったきっかけから語りたい。 「日本人とユダヤ人」(参照)にこういう指摘がある。 「朝鮮戦争は、日本の資本家が(もけるため)たくらんだものである」と平気で言う進歩的日本人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。その言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。 ここでのトピックは朝鮮戦争についてだが、関東大震災における朝鮮人虐殺に
注:このエントリ、ちょっと訂正・補足します。 ⇒内田樹の研究室: 捕虜と戦陣訓 しかし、日本軍の捕虜たちはそうはしなかった。 彼らは捕虜になったとたんに人格を一変させてしまったのである。 ベネディクトが驚いたのは、これほど「勝者に媚びる捕虜」たちを見たことがなかったからである。 捕虜たちは嬉々として自軍の内情、兵の配備状況をことこまかに具申し、中には米軍の偵察機に同乗して、「あそこが弾薬庫で、あそこが司令部です」と逐一報告した兵士さえあった。 この変節の理由は簡単である。 戦陣訓がいうとおりに「勝敗は皇国の隆替に関」するというのがほんとうなら、皇軍が負けるということはイコール「皇国は滅亡した」ということである。 ならば皇軍を打ち破った軍隊こそが「百戦百勝の新たなる皇軍」であることは論理の経済が私たちを導く合理的結論である(現にその論理に従って、日本は戦後60年間アメリカに仕えてきたではない
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