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隋唐に関するEoH-GSのブックマーク (3)

  • 中国の唐の時代の墓誌 日本から渡った吉備真備が書いたものか | NHKニュース

    中国で発見された唐の時代の官僚の墓石に刻まれた墓誌が、当時、唐に渡っていた吉備真備によって書かれたとみられることが分かりました。専門家は、吉備真備が書いた文字は日国内でも見つかっていないとして、貴重な発見だと注目しています。 25日、北京で公開されたのは、中国の唐の時代の官僚で、遣唐使など外国からの使節の受け入れを担っていた李訓という人物の墓石に刻まれていた328文字の墓誌です。 墓誌は、6年前に河南省洛陽で見つかり、李訓の生前の経歴などが記されていて、文章の最後に「日国朝臣備書」と刻まれていました。墓誌を発見した広東省深※センにある博物館の閻焔館長によりますと、日の「朝臣備」という人物が書いたことを意味し、文字が書かれた年代から、「朝臣備」は遣唐使とともに留学生として唐に渡っていた吉備真備を指すとみられるということです。 吉備真備は、奈良時代に2度にわたって唐に渡り、当時の中国の政

    中国の唐の時代の墓誌 日本から渡った吉備真備が書いたものか | NHKニュース
    EoH-GS
    EoH-GS 2019/12/25
    “朝臣備”姓なのか唐名なのか。仲麻呂は朝衡。/動画見たら姓だった。っていうか李訓隴西李氏なの? 李徴と同じじゃん!
  • 見つかった隋・煬帝の墓 暴君説も疑わせる数々の出土品+(1/3ページ) - MSN産経ニュース

    隋の煬帝といえば、希代の暴君として知られている。奢侈(しゃし)を好み、残酷な刑を復活させたりした。だが半面で、華北と江南を結ぶ大運河の建設や科挙制度の創設も行った。果たして暴君だったのかどうか。その真相が墓の出土によって、次第に明らかになりつつある。(フジサンケイビジネスアイ) 昨年3月、揚州の西湖鎮曹荘で不動産開発の工事中に2つの墓が発見された。特に1号墓からは、墓誌と多数の価値の高い副葬品が発掘された。これらの出土品から、この墓は煬帝のものではないかということになり、考古学会に一大センセーションを巻き起こした。 専門家の間からは、様々な疑問も出された。帝王の陵墓としてはあまりに規模が小さく、貧相ではないか? なぜ「墓」と呼ばれ、「帝陵」と名づけられていないか? なぜ当時の都である長安(今の西安)と離れた揚州に葬られたのか?

    見つかった隋・煬帝の墓 暴君説も疑わせる数々の出土品+(1/3ページ) - MSN産経ニュース
    EoH-GS
    EoH-GS 2014/07/10
    すごい解説でワロタ
  • asahi.com(朝日新聞社):遣唐使「円仁」足跡 中国で発見 - 文化トピックス - 文化

    遣唐使「円仁」足跡 中国で発見2010年7月10日12時6分 石板の見つかった法王寺。中国でも最も古いとされる寺の一つだ=中国河南省、酒寄雅志さん提供 発見された石板からとった拓。左端の2行に「圓仁(円仁)」「大唐会昌五年」の文字が刻まれていた=酒寄雅志さん提供 9世紀の中国での人々の暮らしや信仰の姿を伝える詳細な記録「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」を残し、比叡山を日仏教の母山へと発展させた天台僧、慈覚大師円仁(えんにん)(794〜864)。その名を刻んだ石板が中国河南省登封市の法王寺で見つかった。苦難を乗り越え民衆の仏教をもたらした高僧の姿が、千年以上の時を超え浮かび上がってきた。 円仁が少年期を過ごしたと伝わる栃木県岩舟町の大慈寺を、法王寺の僧が訪ねてきたのは今年1月。住職の林慶仁さんに石板の写真を示し、「調べても中国には該当者が見あたらない」と、そこに刻まれ

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