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琉球に関するEoH-GSのブックマーク (6)

  • 「おじい」「おばあ」は下品な言葉!#21|比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)

    御総様(ぐすーよー。皆様) 2016年の琉球新報に、首里言葉に一家言を持つ、今は亡き宮里朝光氏(大正13年生まれ)の「『おじい』、『おばあ』は下品な日語。今日限り、使わないで~」という刺激的な発言を記事にしたものが掲載されていました。 それが下記です。 実は私も大賛成です。 「おじい」「おばあ」は、うちなーぐちではありません。 来は「たんめー(おじいさん)」「ぅんめー(おばあさん)」といいます。 その前に少しこの記事の補足をします。 「なぜ『首里城正殿』と言うのですか。『百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)』という素晴らしい固有名詞があるのに」 と記事にあるように宮里氏はご立腹の様子ですが、そうです。 宮里氏のいうように琉球王国時代の文化財のほとんどは日語読みとなっており、それが当たり前のこととして教科書や公的機関でも記されています。これは私も当に異議を申し立てたい。 例えば、「首里

    「おじい」「おばあ」は下品な言葉!#21|比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)
    EoH-GS
    EoH-GS 2022/11/05
    あーなるほど。日本語強制の結果ひろまった言葉なのね。
  • 1879年日本軍は琉球人を拷問し沖縄県を設置#41|比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)

    (上記トップ写真は首里城歓会門を占領する戦前の日兵) 1879年3月27日、日は琉球国の首都首里にある御城(うぐすぃく。首里城)を占領し、沖縄県を設置すると一方的に宣言しました。 その翌月、4月4日には日全国に沖縄県設置を布告し、さらにその翌月5月27日には拒否する尚泰王を東京へ拉致しました。 残る琉球の役人たちは琉球国を維持しようとしましたが、同年8月18日から1カ月に渡り日軍により拷問され、屈伏させられ、遂には強制的に沖縄県の行政に就かせられます。 こういう琉球人側から視る歴史はほとんど共有されておらず、上記一連の大事件は「琉球処分」という歪曲された言葉で定義されています。 「琉球処分」だなんてとんでもない定義で、これは琉球人にとって屈辱的な歴史定義です。 それについてもこのnoteで書きましたので下記リンクからお読みいただければ幸いです。 さて、ここからが題。 そもそも上記

    1879年日本軍は琉球人を拷問し沖縄県を設置#41|比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)
  • 琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 琉球王国交流史デジタルアーカイブの公開資料の拡充について(2022/8/4)

    浦添市教育委員会発行『琉球王国評定所文書』 下記の通り、浦添市教育委員会の協力を得て、琉球王国交流史デジタルアーカイブの公開資料に『琉球王国評定所文書』(1~18・補遺別巻等)を追加いたしました。なおPDFの公開は著作者の承諾が得られたものに限り、第1~3巻についてはテキストデータも公開しています。 今後とも琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブをご活用いただきますよう、よろしくお願いいたします。 また、よろしければデジタルアーカイブへのアンケートにご協力ください。 【令和4年8月4日付け公開資料】 1 琉球王国評定所文書 第1巻(巻頭論考および解題含む22件、30.2万字) 2 琉球王国評定所文書 第2巻(巻頭論考および解題含む26件、27.7万字) 3 琉球王国評定所文書 第3巻(巻頭論考および解題含む16件、26.2万字) 4 琉球王国評定所文書 第4巻(巻頭論考および解題

  • nix in desertis:高校世界史における中世・近世の「琉球王国」問題

    久々の高校世界史深堀りシリーズ。先日Twitterでこんなアンケートを取った。回答してくれた方々はありがとうございます。 ちょっと気になるので,アンケートをとってみたい。知っている人は知識で,知らない人は調べずにイメージでお答えください。 琉球王国の最盛期はいつ?(最盛期の定義が曖昧ということであれば,万国津梁の鐘の作られた時期をお答えください) — DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) June 3, 2020 正解は万国津梁の鐘の制作年が1458年なので,一番上の「1429年〜16世紀前半」が正しい。実際に琉球王国の最盛期はこの時期であるというのが一般的な認識であろう。後述の理由から正解者は少ないだろうと思っていたのでそこはあまり驚きがなかったのだが,こんなに綺麗に解答が割れたのは予想外だった。琉球王国の盛衰については,Call of Histroryさんの次の

    EoH-GS
    EoH-GS 2020/06/30
    これ足利義満の勘合貿易とかの知識があればなんとなくわかるんでない?『琉球の風』は確か寧波事件から始まる。そういう意味ではあれは衰退の話なのよね。
  • 『おもろさうし』 斬新な解読で新説提示 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

    芸能・文化 『おもろさうし』 斬新な解読で新説提示2012年8月19日  Tweet 『おもろさうし』島村幸一著 笠間書院・1200円 おもろ研究の最新の成果を盛った読みやすい好著である。難解とされてきたおもろが、とても分かりやすくなった。著者は最近、学位論文を増幅させて、大著『「おもろさうし」と琉球文学』(笠間書院)を世に問うた気鋭のおもろ学者である。書はそれを踏まえ、「おもろさうし」の全体に満遍なく行き渡って精選した20首のおもろに、斬新な解読を試みたものである。どのおもろについても新説が惜しみなく提示される。  例えば高校の教科書にも出る有名な一首「ゑけ 上がる三日月や/ゑけ 神ぎや 金真弓…」(巻第十・ありきゑと)は、従来、航行する船人が船上から天を仰いで月や星を讃えた歌と解釈されてきた。しかし巻十が幻想的な神(神女)の航海を詠む歌を含むことを踏まえ、宵(こもりの時)から夜明けに

  • 倭寇は琉球船を襲わなかった?(1) - 目からウロコの琉球・沖縄史

    大交易時代、琉球王国はアジア各地域に交易船を派遣してばく大な富を手に入れ、繁栄を極めたことはよく知られています。琉球船が活躍していた同じ時期、アジアの海には「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていたのですが、琉球船はこの倭寇に襲われた事例がない、という意見があります。これは当なのでしょうか。 結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。 例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります(※)。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は

    倭寇は琉球船を襲わなかった?(1) - 目からウロコの琉球・沖縄史
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