さて、その三浦展だが、9月2日の日経新聞夕刊の「こどもと育つ」というコーナーにインタビューが載っているのだが、彼の10歳になる息子さんの名前が「真楠(まっくす)」というのに驚いた。 三浦MAX!! いや、まぁいいんですけどね…… 日本溶解論―この国の若者たち 作者: 三浦展,スタンダード通信社出版社/メーカー: プレジデント社発売日: 2008/03メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 20回この商品を含むブログ (16件) を見る
アメリカで10年以上生活してきた経験からシミジミ思うのは、中学・高校・大学と長い間授業で英語を習ってきても、結局ほとんどの日本人は文法はしっかりマスターしているので平均的なアメリカ人には難解で読みにくい文章でも比較的簡単に読みこなせるのに、なぜか小学生の低学年レベルの英会話能力も身についていないという信じられないようなギャップです。とにかく基本的な英語すら会話の中では聞き取れないんです。どうしてこんな奇妙なアンバランスな現象が起こるのでしょうか。 日本に来た外国人が貴方と普通に日本語で喋れないのに実は芥川賞や直木賞を受賞した作品はスラスラ読めると言ったらどう思いますか。変でしょう。現在、日本では政府が音頭を取って小学校でも積極的に英会話が導入されているようですが、将来子供たちが大人になる時、スラスラと英語が喋れるのでしょうか。残念ながらどんなにすぐれた教材を使ったとしても、今の英語教育方法
ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。 13年度からの日本の高校学習指導要領改訂案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という方針が示された、というニュースを読みました。水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で英語教育と日本語教育について真剣な提言をしているすぐそばから、水村さんが頭を抱えて嘆く姿が目に見えるような馬鹿馬鹿しい案を文科省が提示してくるのですか
・心のきれはし―教育されちまった悲しみに魂が泣いている 絵本作家の教育論。五味太郎の大人問題も良かったが、これもユニークな視点で教育のあり方を根本から変えようとしていて面白い。名作「はれときどきぶた」の児童文学作家 矢玉四郎が書いた教育論。 著者は子供のことを「子ども」と書く表記法を改めよと強く訴えている人である。教科書では小学校5年生までは「子ども」と書かれている。子という字は1年生で習うが、供は6年生まで習わないからである。だが一時的にせよ「子ども」「れん習」のような日本語の慣行にない醜悪な交ぜ書きを使うのは間違っている、日本語への冒涜だという。そういう欺瞞が大嫌いな人なのだ。(子ども表記問題には論点が複数ある。)。ストレートに本質に迫る物言いが爽快。 代表作のはれぶたと続編は私も大人になってから出会って以来、大ファンである。 ・はれときどきぶた 1980年に出版以来、子供に圧倒的に支
今、高校生なんですが・・・ 親にDQN名を付けられ、今まで困ってきました。 男なのに、女みたいな読みの名前を付けられて・・・ 漢字もなんか変だし、最悪です。 DQN名は子供の未来に悪い影響を与える。 せめて、読み方や性別の区別が はっきりとした名前にしたほうが 子供にとってもよいと思う。
小学生高学年のときは作文が苦手だった。「課題として出す以上は何らかの基準を満たすことを求めてるだろうが、基準が分からない。どういうルールでゲームしてがんばればいいんですか?」と思っていた。また、読書感想文に関しては課題図書に選ばれるような本というのは「教訓」が潜んでいてその教訓を見抜けるかのテストだと思ってた。そしてその教訓を以下に料理するかだと思ってた。高校になって「潮騒」の読書感想文で「〜べし」とかではなく単純に「青春のみずみずしさ」に焦点を当てて読書感想文書いてた頃あたりからそういった思考から脱却できていたのだろう。作文系の苦手な生徒というのはひとつにはこのように課題の目的が分からないことが理由になって生まれるのではないだろうか。小学生三年にもなれば「要求の意図は?」ぐらい考えるのでそれまでにびしっとした方向性を示してほしい。何のために何をすればよいのか。だが、それ以前にそもそも指導
ホンモノの文章力―自分を売り込む技術 (集英社新書)作者: 樋口裕一出版社/メーカー: 集英社発売日: 2000/10メディア: 新書やや古い本だが、良作なので紹介する。本棚の整頓をしていて目についたので、思わず再読してしまった。刊行当時に購入してから、何度も読み返し、背中が磨り減っている。 本著『ホンモノの文章力―自分を売り込む技術』は、僕にとって「日清のカップヌードル」であり、また「魔法少女アイ」でもある。原点回帰という言葉がある。様々なカップラーメンの新商品を食べても、結局、最後はやはり「日清のカップヌードル」が美味いのだ。様々な触手物エロライトノベルに手を出しても、結局、最後はやはり「魔法少女アイ」が興奮するのだ。 たとえどんなに脇道にそれても、遠回りしても、必ず帰ってくる場所がある。本著『ホンモノの文章力―自分を売り込む技術』は、僕にとって、帰るべき場所なのだ。日記を書いてると、
小学校英語 「コトノハ - 小学校からの英語教育は必要か」のなかで賛成コメントを付けてる人に対して反論します。 ※なお、小学校英語とは公立小学校に「英語」という教科を創設することと定義します。その「英語」に数時間を割くために他のいくつかの教科の授業時間が削減されるものとします。 kfe_b5f6子供が楽しかったらそれでいいし、英語のWebサイトが読めたら楽しいし。「楽しかったらそれでいい」っていいわけないだろう。一応公教育なんだし。基礎学力なり(広義の)道徳教育なりにつながってもらう根拠が必要。あと「英語のWebサイト読めて楽しい」を公教育がサポートする必要性はまったくない。 かっきい自分の経験上では、発音をよくする、という意味では必要かもしれない。僕の経験上(それと日本国内で行われた教育研究上)では、発音はよくならない。そもそも発音をよくするためだけの英語教育なら中学以降でも可能だし、大
1.特集「漱石・鴎外の消えた『国語』教科書」 定番教材は消えない 文芸雑誌『文学界』が「漱石・鴎外の消えた『国語』教科書」という特集を組んで話題になったことがありました(2002年9月)。中学生用の教科書教材として夏目漱石と森鴎外が取り上げられなくなっているという事実をふまえ、国語教科書について再考しようとした特集です。 この特集の中で「現行の『国語』教科書をどう思うか?」というアンケートが行われ、49名の作家、評論家からの回答が掲載されました。4つある質問のうちの1つが、翌年4月からの中学国語教科書に掲載されている作品の一覧表を示した上で、「この国語教科書について、どのように思われますか」とたずねたものでした。 回答を見ていて目立ったのは、次のようなタイプの感想です。 「走れメロス」がどの教科書にものっているのがふしぎ、この作品の文学的価値はさておき、これを「友情」を美徳とする物語として
新書とはいえ、くだらない本を買ってしまって後悔しています。読んでいて嫌になってきました。タイトルも羊頭狗肉だし、思いつきや直感で書かれていて、突っ込みどころ満載。著者もネタ枯れなんでしょうが、そろそろこのジャンルから足を洗うか、さもなくは専門書でやってほしい。新書で出すと、私みたいな一般人が間違って買ってしまう恐れがあります。程度の低いアジテーションの書ですね、これは。 「日本には危機管理が必要だ」と呪文のように唱えてきた佐々淳行@浅間山荘や、「郵政民営化」を飽きることなく言い続けてきた小泉純一郎と同様に、石原千秋は十八番の「国語教育は道徳教育」論を一貫して自著で展開してきました。本書は小・中学校の国語教科書を俎上に上げて分析?したものです。 ネットで書評検索してみると、教える職業(学校の先生、大学の講師、院生など)に就いている知識人の方が、思いのほか数多くこの著書の本を取り上げていること
小学校英語, 英語...しかし、その「外国語」教育が「英語」教育にすり替えられることがあってはならない。英語は国際語ではないし、今後も国際語にしてはならない。そもそも国際語などというものは存在させてはならない。 若林俊輔(『新英語教育』1992年6月号 p.25)英語のことを「国際語」とか「共通語」とか「世界語」などと言っている方がよくいるが、その表現のしかたはあんまりだ。「英語=国際語」というようにイコールの意味で使ってるんだとしたら、それはもう誤解の産物としか言いようがない。この辺はまんま山田雄一郎という言語政策学者のパクリだが*1、英語は国際語だというのは比喩表現である。つまり英語は国際語だというテーゼは、英語は国際語かのようだと言っているに過ぎない。 勉強語や喧嘩語や便所語などというものが存在しないのと同様に、国際語というのも理論的にはありえない。ある言語が国際コミュニケーションに
日系ブラジル人と英会話をする「暴力的」な小学生 小学校英語, 英語, 教育 東日新聞 ちと古いが、どうしても言いたくなったので。 私は、「国際理解」と「英語」を結びつける考え方が大嫌いだ。 いや、もう少し正確に言うと、「本音はただ英語が教えたいだけなのに、建て前として『国際理解』という美辞麗句を持ち出す」というレトリックが本当に嫌いなのだ。 なんで嫌いなのかというと、以下のようなエセ国際理解論がしゃぁしゃぁと垂れ流されるからである。 加藤教育長は[小中一貫の英語教育を通じて]「ブラジル人の子どもたちと豊橋の子どもたちが英語を介して交流できればいい。現制度では難しいが、法改正などを求めていく。他事業への影響はない」。 ブラジル人の子どもたちに獲得させるべき能力はまず、「教科学習ができるだけのポルトガル語能力*1」で、その次ずっと後に「日本社会に適応*2するための日本語力」が続く。断じて英語力
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