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ブックマーク / qaze00.hatenadiary.org (44)

  • にんげんのぬくもり - インターネットの真の姿とは

    とても人肌が恋しいときがある。エロい意味ではなく。 子供のころ、ふとどうしようもなくさびしく、いたたまれなくなり、親の布団にもぐりこんで眠ったりしていた。 母親が潔癖症だったこともあり、抱きしめるような、肌と肌が直接触れる機会は少なかった。人肌のぬくもりというものは、安心と幸福感を伴う。 大人になり、仕事を始めたが、肌をあわせる仕事ではない。ある夜、デスクで一人仕事をしていると、ぬくもりがほしくなるときがある。誰でもいいから抱きしめてもいい人がいるなら、抱きしめたいと思う衝動に駆られる。ぬくもりがほしいと強烈に思う。毛布や抱き枕で眠るのとは違う。 インターネットでも、人のぬくもりはおくれないものだな。 抱きしめる、ハグするということは人の最終目標の一つかもしれないとぼんやり思った。 外国では、挨拶でも日人から見たらオーバーに思えるくらい抱きしめたりする。日ではあまり見られない。仕事にお

    にんげんのぬくもり - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2009/07/27
    「電話やインターネットや言葉でたとえどれほどの優しい言葉をかけられたとしても、にんげんのぬくもりにはかなわない時がある。」
  • インターネット上の一生 - インターネットの真の姿とは

    ・○月×日、初めてインターネットに触れる。YAHOO!の画面が新鮮に感じる。 ・インターネットの世界を知り、さまざまなページを巡回する。笑いや情報の収集に貪欲な毎日。 ・やがて対象はエロにシフト。掲示板へ始めて書き込んだりなどしてみる。ほかのユーザの存在を感じ始める。 ・インターネット上の「観測」を続けるうちに興味を持つように。 ・インターネット上で「活動」をはじめる。誕生の瞬間。媒体はSNSゲーム、ブログなど幅広い。 ・発言する。コミュニケーションを行う。参加している意識を感覚として持つ。自分が何かしなければという気持ちに駆られる。当事者意識が強い。この楽しい瞬間をいつまでも過ごしていたいと思う。 ・環境が変わり、インターネットで過ごす時間が少なくなる。自分なりに折り合いをつけ、絆をつなぎとめようとするが、やがてそれすらままならなくなる。 ・やがて、インターネット世界に対する興味が薄れ

    インターネット上の一生 - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2009/07/27
    「ひとつの発言のみで消える木霊として存在したほうが気楽。だが、さびしい。」
  • 透き通った世界 - インターネットの真の姿とは

    人間の快感のツボの一つは、「知らないことを知る」ことだと思う。「また、一ついい経験になった」「○○覚えた」とは、日常のうちによく交わされる言葉ではないか。 インターネットが普及しはじめた90年代以来、情報入手コストが一気に下がったことから生じたものは、未知なる体験の刺激の希薄化ではなかったか。あらかじめ、概要の情報が容易に収集できることから、新しい行動が「未知なる体験」というよりも、体験と想像のギャップを確かめる行為へと変質した。たとえ、そのギャップがとても取るに足らないものだとしても、人は自分の行動を正当化するために、意味を見つけようとした。 まぁ、人間の想像というものは、すごくボヤーっとしていてあいまいだ。すぐにコロコロ変化しうる。あくまで、想像は想像でしかない。すごく不正確で、自分の生まれ持ったバインド(環境、バックグラウンド)によって大きく揺れる。全体の1%の情報を得たところで、残

    透き通った世界 - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2009/01/14
    「五感で得た情報が0であるため、もうそういった体験からひたすら想像するしかないわけだ。でも、ちっともわかっていない人も、わかっている人も、「結構わかった気になれる」」
  • 見られている「自分」を想像する - インターネットの真の姿とは

    自分は、自分のことを生まれて以来連続して知っているが、出会う人は、自分の中の一部しか知らない。だから、ギャップや勘違いなどが必ず出る。私は基的に自己中心的な人間であるがゆえに、あまり人の立場に立って物事を考えることはついぞないのだが、最近、自分が思っている自分と、他人から見えている自分にギャップがあるなと感じ始めたので、「見られている自分ってどんなもんだろう」ということを少し意識した。 まあ、いかに自分をよく見せるかというのは、できる奴やリアルに充実した人間は意識せずとも、いや相当意識した結果として、日常的にその効果を表現できているのかもしれないが、そういった部分を面倒くさがる自分としては、まぁいいや、なるようになるだろう、以上の感情はわかない。ありのままの自分でいいやというのは、なんとも都合のいい言葉である。 自分が人の内面や心理をちっとも見透かせないように、相手も自分を見透かせていな

    見られている「自分」を想像する - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/12/07
    「人への興味、という以前に自分の内なる感情の処理に精一杯だというのは、なんともかっこよくない話ではある。」
  • 打ち出した言葉の重み - インターネットの真の姿とは

    無職の元東大生「教科書と違う現実が…」 文科省幹部を殺害予告 逮捕の件、同年齢ということもあり、自分にも人ごととは思いにくい。 しかし、ネット上に殺害予告をして逮捕されるケースが出て久しいが。頭でなんとなく理解している部分と、なんか納得のいかない違和感がいまだ残る。いまはどうにも対処がモグラ叩き的で、さまざまなケースを包含していないからだろうか。 そもそも。インターネットが半ばブラックボックス化してしまっているがゆえに、リスクを正当に、人間来の素朴な感覚として認識しづらいところにひとつの原因がある。赤信号はわたっちゃいけませんという感覚や、人のものをとってはいけませんという感覚は教育されているのに比べ、インターネットに関するそれは希薄だ。最近の小学校などでは、そのような教育はなされているのだろうか。 まぁ、世に犯罪がなくならないようにこういったケースはゼロになることはないだろうし、ことさ

    打ち出した言葉の重み - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/12/02
    「今、すべてが変わることがないとは思うが、インターネットのほとんどの場所で不穏当な言葉許されないのであれば、逆にそれが許される空間、というものがあってもいい。」そういえば、2chの理念って何だったっけ?
  • 超えがたい相手を前にして - インターネットの真の姿とは

    すでに気付きつつも、自分の中でごまかしている部分がある。 ああ、こいつは超えられないなって気持ちを持つことだ。 俺がこの先結構頑張ったとしても、俺のスタンス自体を変えない限り、こいつは超えられないなと。モノが違うと。能力が違うと感じる。どういう血筋と考え方してんだこいつ、化け物かとすら思う。 そう、そしてそいつを超えられない以上、俺は諦めなければならない・・・・高みに到達することを。だって、いくら自分が頑張っても、その上にそいつがいるから。しかもタチの悪いことに、差はどんどん広がっていくばかりだ。こちらが限界だと思っているスピードをはるか超えたスピードではしっている様を見ると、絶望にも似た気分になる。 かつて、俺も夢中になって取り組んでいたものがあった。俺、才能あるんじゃないか、最強じゃないかと思う時期もあった。夢中で階段を二足とびで飛ぶ勢いで上達していった。 しかし、求められるものが高く

    超えがたい相手を前にして - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/09/26
    「じゃあどうするのだ。方向性を変えるしかない。自分だけがなれる№1の方向へ向かって。それは、誰も向かわないような方向へ行くのではなく、誰かと誰かの道の間を進むのだ。」
  • それが何かと考える想像の楽しさ - インターネットの真の姿とは

    何かを想像することは楽しい。人はしばしば想像に酔う。想像だけでご飯三杯はいける。 人間が他人から評価されるとき、それはたいていの場合、その人が出した結果から評価がくだされる。 一方、自分自身は、その結果に向けて行動している過程に、楽しみを見出す。いや、正確には過程そのものではなく、その過程を行動している自分を想像して、その美しい光景に酔うのだ。 想像がどれくらい楽しいものか、例を書くならば、 のタイトルを見たときに、CMを見たときに、どんな内容だろう、どんなものだろうと想像する楽しさ。 ゲームや勝負をしているときに、どんなことがおこるかわからない未知なる未来への想像。勝つか負けるかわからない楽しさ。少し勝利に向かって前進した瞬間のうれしさ。それを想像する楽しさ。 旅行も、計画しているときが楽しいと言う。 出世や成功、恋愛結婚も・・・・想像して、それに向かっている瞬間の方が、楽しいのかも

    それが何かと考える想像の楽しさ - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/09/08
    「全てが見えてしまえば、それは決まってしまった結果であり、そこに事実が揺らぐ楽しさ、ドキドキ感はない。」遠くにある距離を意識できる限り努力することができるというのはあるような気がする。
  • 自分の時間 - インターネットの真の姿とは

    自分の時間がないと、自分が生きていると言えるのだろうかと思う。自分がランダムの行動を起こす可能性がなく、世界が期待するような可能性の下に動くのであれば。 自分の気持ちや意志、感情は行動に昇華してこそ世界に影響を及ぼすのであれば、自分の時間で練った構想を元に行動までできなければ、それは自分のような別の誰かでも、かまわないのだろうと思う。 独自の行動を取ればそれがいいと言うわけではない。社会の歯車がいきなり止まったり、逆方向に回りだしたら、それはそれで、それなりに大変だ。 自分の時間・・・・自分が、来の仕事として以外にも、社会のどこかに発信していけるような、生産的な存在でありたいと思う。ブログを書くのはまだ、行動とはいえない。気持ちも大事だが、結果、成果を報告してこそだなぁ。

    自分の時間 - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/08/28
    「気持ちも大事だが、結果、成果を報告してこそだなぁ。」
  • 立ち位置が違う人の議論は面白いなあ - インターネットの真の姿とは

    京大生が語る高学歴エリート難民論争 小飼弾氏が異論 を読んでいて、ふと思ったことを。 ブログに、長文を書こうと思うくらいに真剣になったエントリを読むと、ある種の楽しさを感じる。 そんな気兼ねなくぶつかることって、日常では当あり得ないからなあ。 体面を気にせず、ある一定以上の真剣さをもって書く。イタかろうが、当にその人が内心そう思っていて、それが文章として書かれたものであるなら、そういう内心の意見を読むことで、「人」への理解が深まる。 まぁ、エントリの意図を読みだすときりがないよ。わざと煽って書いてるなとか、シニカルな立場で書こうとしているなとか。そこまではわからないにしても、その人の環境から形成された、性格、考え方。確立したバインドを感じる。 私は、タテマエの会話やコミュニケーションの潤滑油のような会話は、大切だと思うが、ノリ中心での会話が続くのはあまり好きではない。議論とまではいかな

    立ち位置が違う人の議論は面白いなあ - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/08/04
    「その人が感情的になる部分こそ、むしろ聞きたい。俺は別にヒイたりはしない。イタイ意見を言う人は、イタイ意見を言うことを恐れる人よりも、勇気があると思う。」
  • 気持ちを伝える - インターネットの真の姿とは

    実際に会うことで、気持ちがを伝わるってよく言いますよね。この、気持ちってやつは何なんだろうか、と素朴に思う。はたから見ていると、気持ちによって伝わるのは、その内容がいかに重要か、そうでないかが感情にあらわせるくらいで、内容そのものは変わらない。あと、互いに話している間だけ、認識の違いを、質問や確認によって修正できるメリットがあるくらいだろう。 気持ち、はロボットには伝えられなさそうだ。気持ちは、伝える相手に心と意志があることを前提にしているからだ。気持ちとは何だろう、と考えていくと、相手のことを「どれくらい」どう思っているか、自分が「どれくらい」どうしたいのかをあらわす量的なエネルギーなんだろうと思う。 私事になりますが、私はプレゼンがすごく苦手だ。緊張して、言いたいことを忘れてしまうことも多いし、気のきいたパフォーマンスはできない。おまけに手や腕がよく動いてしまうことが多い。これはどうや

    気持ちを伝える - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/07/27
    「その時に伝わる、意志という情報量は、A4用紙数枚にうめられた、謝罪の言葉よりもはるかに重く、大切だ。」公の場では、気持ちを伝える技術でことが決まってしまうことも多いような気もする。
  • 説明できない良さ - インターネットの真の姿とは

    言葉によって説明してしまうことで、陳腐化してしまうことは良くある。 私たちが「なんとなく、いい」と思うとき、その多くは、当にどうでも良いけど少しだけいいと思っているわけではなく、確かにそれを選びたくなるほどそのものにはっきりした魅力がよさがあるにもかかわらず、それを説明する言葉をもたないだけなのだ。 意識としてイメージとしてもつとなんだかすばらしいものにみえるもののも、言葉として表してしまうとそれはありふれたものにみえてしまう。 世界には、説明できないような美しいものや良いものが多い。言葉で説明できないものなんかないものと同じだと思うかも知れないが、そんなことは決してなく、説明できなくてもそこに”ある”のだ。その何かは、言葉によって説明されたり、類推されることでその価値を失ってしまうほどのはかないものだが、その何かが人をひきつける。 たとえば、私がWebの良さを語るとき、どうしてもそこに

    説明できない良さ - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/07/10
    「感性を研ぎ澄まし、ただ見るだけで、得られるものは確かにある。それはやがて自分の考え方や、感性によって後々少しずつアウトプットされていく」
  • 怒りのバランス - インターネットの真の姿とは

    人間関係に一番直接きしみが出る可能性がある出来事として、怒りやいらだちを相手にぶつける時があります。怒っているかどうかの判定は、言葉の端々を見聞きしているだけも大体感じ取れるものです。 正直、私は怒りに接するのが対処があまり得意でないし、自分が怒るのも、その限度というものがよくわからない。わからないから、やってはいけない限度の閾値を越えるのを怖く感じ(取り返しのつかないことになることを恐れる)、怒れない、怒ってしまうことをためらってしまう。人間関係を壊したくない、平穏でいたいという思いが、事なかれ的な方向へ話をもっていくことを望むのかな、と思います。 一方で、怒りが存在しない、皮肉や水面下でのやりとり、表面的な社交辞令が飛び交う世界を望んでいるのかというと、それはそれで、気持ち悪さを感じる。思っていることがあるならちゃんと言えよ!と思うわけです。まぁ、言えないんですけどね、なかなか。相手の

    怒りのバランス - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/06/22
    そういう感情って、変に知恵がつくとかえって処理に困ることも多いなあ。
  • 不特定多数に送るメッセージのむなしさと期待 - インターネットの真の姿とは

    送る相手の数によって、同じ言葉でも、その言葉の持つ重みは違う。twitterでもそうですね。そのメッセージをどういう姿勢で読むかが変わってくる。メーリングリストも同様の性格を持つと思う。 一対一だと否応なく反応しなければならないメールや電話と違って、メーリングリストやtwitter、ネットの掲示板などは違う。当事者意識をもっても持たなくてもいいのだ。眺めていられる立場といいますか。参加してもしなくてもいい、自分の気分によって選択の余地が出てくる。これが不特定多数による距離感であり、プレッシャーが少ない理由である。 もちろん参加しないとさびしいのだが、一人で想像して(・∀・)ニヤニヤニヤニヤすることが決してキライではない私(ちょっとアレな人ですね(*ノノ)としては、行動をためらうことが多い。悪いクセだなあと自分では戒めているのですがね・・・。私は一度距離を縮めてしまうと、再び距離をあけるタイ

    不特定多数に送るメッセージのむなしさと期待 - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/06/16
    「自分の書いたことを見てうれしく思っているかも、ひょっとしたら反応してくれるかも…自分に何かしてくれるかも・・・そんな若干夢見がちな期待を持てる人が、どんどん発信を行う」誰に向けて書くんだろうなあ。
  • 自分が本当に居たいクラスタはどこにあるのか - インターネットの真の姿とは

    現在探索中。twitterにしてもmixiにしても2chなどのWeb上、そしてリアルにおいても、「自分の居場所は、まさにここだった・・・・」と思えるような場所がなくて探している。 何がいいたいか。自分があることについて考え、言ったことに対する反応が薄いということはですね、つまり、私が興味あることにその人は興味がないと。そういう人と話をしても、共通の話題がなかったらあんまり楽しくなかったりする。もちろん、お互いに仲良くなろうという気持ちがすごくあれば、それでもかなり仲良くなったりするのだが、そういった気持ちが互いにあまりないと、楽しくないんですよ、あんまり。 私は興味するところは・・・キーワードとしては、Webサービス・通信・心理・経済。 +αでニュース、政治といったところか。そういった話を誰かとして、大いに議論したりしたいわけなんですよ。話題にさえ積極的に応じてくれるなら、当にそれは地球

    自分が本当に居たいクラスタはどこにあるのか - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/06/09
    「自分の考えを深められるような場所、そして仲間が欲しい」距離感とか価値観とか、どうやってすり合わせいけばいいんだろうと思うことはある。
  • ブログは真実を語れるか - インターネットの真の姿とは

    ブログという「場」は、真実を語れるような場所か、ということについて。真実とは、真実だと自分が当に思っていることをそのまま書けるか、ということにします。 現状、いくつか問題があります。 自分にとってコアな、真実だと思うエントリほど独りよがりに陥る →まず読んでもらえない 周りの目を気にする。リアルでつながっている人がブログを知っているならその目を、リアルでなくても常連として読んでくれる人の目を気にすることも。「そのブログのスタイル」を外れた何かを書くことを恐れるといいますか。要は、失望させたくないということですね。 芸能人や有名人なんかは好きなことかけないだろうなあ。好きなことかけないブログってどういう意味があるんだろう。広告塔、近況お知らせ、ファンつなぎとめ・・・などなど。変なこと、自分にとってコアな部分を書いてしまうことはリスクにつながったりする。Webの「誰か」は常に、有名人のどこか

    ブログは真実を語れるか - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/05/27
    「「真実の感情をぶつけたエントリ」、リアルで言ったらこいつイタイんじゃね、って思われてもブログでなら書ける、ブログはそんな場であって欲しいと思う。」
  • 共有する時間の長さは二人を結ぶ - インターネットの真の姿とは

    男女に関わらず、ネットリアルに関わらず、時間は二人を結ぶ。性格が違おうが、方向性が違おうが、同じ時間を共有するということはすごい効果だなあと思った。これはツールや製品、あらゆるモノにもいえることで、サービス、空間、べ物や服など全て、時間の長さとともに愛着というものが出てくる。 もちろんプラスの効果ばかりでなく、飽きるとかマンネリだとかケンカだとかそういうこともありますが・・・それでも、共有する時間は絶対。ブログやでも、そのサイトとすごした時間が多いほど、愛着があるはず。・・・「俺は過去にとらわれないぜ!」って人は、そうじゃないのかもしれませんが。 まったく興味の違うやつでも、仲良くなろうとする気持ちさえあれば十分ではある・・・のかな。この広い世の中、出会いは当、運だ。出会う人やモノ、飼い主はあんまり選べない。 ま、相性が良いと一瞬で仲良くなりますけどね!でも普通の相性くらいだったら、

    共有する時間の長さは二人を結ぶ - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/05/22
    「共有する時間は絶対。ブログや本でも、そのサイトとすごした時間が多いほど、愛着があるはず。」
  • ネットは個人の方が安心する - インターネットの真の姿とは

    日々の生活の中にあるサービスは、基的に大企業が提供しているものほど安心するが、ネットだと逆に大企業だと警戒し、個人のサイトだと安心する。そこに利益を求める心は薄いように思えるから。 企業は基的に利益を求めるため、ネットで企業が何か始めたとしてもそこには必ずビジネスが絡んでいる。消費者に払わせるものはお金か、それに変わる何か代償を求める。それ以外の目的はあり得ない。無料のサービスがあったとしても、それはあくまで長期的な”投資”である。その中のうまくただ乗りできそうな部分を切り取って使っているユーザが大半なのが現状である。 リアル世界で大企業のサービスを受ける理由は、実体があるため、安全性や確実性が第一に求められるからだ。また、ビジネスも絡みつつ、仕事以外の情実の部分がある。要するに、これだけよくサービスしてくれるんだから、相手の目的に利用されてやってもいいか、というような。だが、人と会わ

    ネットは個人の方が安心する - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/05/20
    「インターネットは局地的過ぎる。」
  • ネガティブからはネガティブしか生まれないか - インターネットの真の姿とは

    人と話をするとき、ネガティブ*1な話題を持ち出す人はまずいない。とくに集団だとそう。一対一だと、たまーにでるかな。もしあるとしても、「笑えるネガティブ」な話であり、「リアルネガティブ」な話題は持ち出さない。それはなぜか、相手をも憂にさせるからだ(と思う)。 人間関係というものは古今東西を問わず大切なもので、関係を構築するために人々は様々な話題を提供する。そのほとんどはポジティブな話題、笑える話題がほとんどで、ネガティブな話題が表に出ることは、まあない。というか、そんな話をすると、まともに聞いてくれないばかりか、次の日から変人扱いされてしまうだろう。生産的な人間関係構築に、ネガティブな話題はそぐわない。 でも一方で、ネガティブな話題は時折、話題の質的な部分をついている所があり、話を深堀りしようとしている過程で生じてくるものだと思う。人や世界が全てポジティブでできていることはありえず、ネガ

    ネガティブからはネガティブしか生まれないか - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/04/22
    「ネガティブな話題は時折、話題の本質的な部分をついている所があり、話を深堀りしようとしている過程で生じてくるものだと思う。」
  • Web上のつながりを断つこと - インターネットの真の姿とは

    インターネットは、人やモノ、情報やカネなど様々なものをつなげてきた。つなげることに疑問はなく、人やものがより密接に繋がることで、今まで出会わなかったものや人達が出会い、より緊密な社会ができあがる。それはとてもすばらしいものだと思った。 ただ、つなげるにしても「つなげ方」はWebサービス集客の明暗を大きく分けたように思う。どういうふうにつながりをうまく演出するか。ただ電話のように言葉をただつなげれば人はみなしゃべりだすと言うわけではなく(無論しゃべる人もいる)、シャイな人、テキスト以外のつながりを求める人、報酬を求める人、癒しを求める人、反応を求める人と、世の中色々な人がいるので、いかに人が「使いたい」と思うか。それは必要性、楽しみ、依存によるものかもしれないが、とにかく何かしら人をひきつけるサービスが、淘汰の末に残っていったように思う。 これらのサービスが提供され、使われると言うことの根

    Web上のつながりを断つこと - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/04/09
    「寂しさと、怒りと、やるせなさと、嫉妬心が混じった、胸から抑えがたい激烈な感情…そのような感情が、人と「つながらない」ことから出てくるように思う。」ウェブに限らず、これは確実にある。
  • ブログを否定的に見る - インターネットの真の姿とは

    増田より。以下一部引用 はてなーって交流しているイメージない >みんな閉鎖的でウジウジしていて前に踏み出せないオカマばっかだよね。 煽っているエントリなのかもしれませんが、率直な意見だとは思った。ブログやブックマークはこういった一面が確かにあるなと少し思う。 ブログやブックマークを有効活用している人はこういった否定的なとらえかたはしないだろうが、あまりWebを知らない誰かがはてなを見たとき、そういった感情を抱く人がいても不思議ではないと感じた。感情のぶつける場所が果たしてここでいいのか?とふと思うときはある。何か、ブログを通じて思いを伝えるという行為は、野球でいえば変化球、もしくは二階から目薬のような、そんな歪曲した行為であるように思うのだ。そしてそれが、居心地いい。 >どのブログもまるで放置されているかのような閑散とした状態。 ブログは確かに、まるで人っ子ひとりいないような閑散とした状態

    ブログを否定的に見る - インターネットの真の姿とは
    hatayasan
    hatayasan 2008/03/29
    はてブができて間もない頃は「ウェブページの裏世界」と呼ばれたこともあったようですね。cf.http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/col/20051110/114194/