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試合前のスタメン発表で、スタンドのファンがざわついた。この日、ファーストピッチセレモニーに臨むため、新日本プロレスのエース棚橋弘至(39)と本間朋晃(39)が来場。特別に、広島のスタメン発表を棚橋が、日本ハム側は本間が務めた。棚橋はハキハキと読み上げたが、しゃがれ声の本間が「3番、指名打者、大谷」など読み上げると場内から笑い声が。日本ハム陽岱鋼や広島菊池ら、両ベンチにいた選手らも笑顔で、独特なハスキーボイスを堪能していた。 ファーストピッチセレモニーでは左肩剥離骨折と左腕二頭筋断裂を負っている棚橋の代わりに、本間がマウンドへ。緊張から大量の汗をかきながら投じた1球はワンバウンドで捕手を務めた大嶋のミットに収まった。中学時代は野球部に所属していた本間は「プロのマウンドに上がるのは夢のような話。札幌ドームは最高ですね。でも、ワンバウンドだったので50点です」。故障中の棚橋は、復帰予定として7月
諸々話題になっているのは聞いていましたが、先日遅ればせながら5月27日、新日本プロレス後楽園ホール大会で行われたベスト・オブ・ザ・スーパージュニア公式戦「リコシェVSウィル・オスプレイ」を観戦しました。 試合結果・評価について 世界トップレベルのハイフライヤー対決として注目されたこの試合、試合自体は16分47秒、コーナーからのオスカッターでオスプレイが勝利。その勢いのまま、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア優勝を成し遂げました。 sports.yahoo.co.jp 試合後も評判が高く、新日本プロレスも期間限定でYOUTUBE上で動画を無料公開していたほどでしたが、ビッグバン・ベイダーにツイッター上で批判されるなど話題に。ダンスと闘いの境目はどこにあるのか、という論争にも発展しました。 試合を見ての感想「酒呑んで騒ぎながら見たかった~!」 私が試合を見ての感想はこちら。実際二人の動きはすご
内藤哲也が少年時代から抱いていた新日本プロレスのレスラーになるという夢。ずっと新日本に憧れ続け、ついにその夢を叶えたデビュー戦の日からおよそ1年後、ひとりの選手が他団体から新日本プロレスに移籍をしてきた。 そのとき、内藤は「これはちょっと違うだろ」と思った――。 「王貞治さん、長嶋茂雄さん、アントニオ猪木さん。この3人のことは絶対に“さん付け”で呼びなさい」 内藤は、物心がついた頃から父親にそういう“教育”を受けてきた。 要するに父親はプロ野球とプロレス、とくに読売ジャイアンツと新日本プロレスの熱狂的なファンだったのだ。この3人のうちの誰かのことをつい呼び捨てして呼んでしまおうものなら、本当に本気で叱られた。 毎日、内藤家のテレビには野球中継が映っていて、録画したプロレス中継は親子で一緒に観ることが当たり前のような生活だったが、内藤は、王さん、長嶋さんという人たちが活躍していたという野球よ
ここ数年、プロレス界で“ひとり勝ち”と言われていた新日本プロレスに、2016年の年明け早々から激震が起こった。 棚橋弘至と並ぶ団体の顔であった中邑真輔、さらにはトップ外国人レスラーであるAJスタイルズ、カール・アンダーソン、ドク・ギャローズが次々と新日本退団を表明し、世界最大のプロレス団体であるアメリカのWWEへ移籍。 2月末には、DDTと新日本、史上初の2団体同時所属選手として活躍してきた、“ゴールデン・スター”飯伏幸太までもが両団体との契約を解消したのだ。 合計5人ものトップレスラーの離脱。プロ野球でいえば、クリーンナップの一角を務める生え抜きのスター選手と、外国人助っ人の大半、さらに近未来のエースが一気に抜けてしまったようなものだ。業界ナンバーワンの選手層を誇る新日本にとっても、痛手でないわけがない。 新しいファンの間に広がる不安と胸騒ぎ。 いまのところ観客数減など目立った影響は出て
“スイーツ真壁“としてテレビや雑誌でお馴染み、プロレスラー真壁刀義。甘いスイーツの食レポで、日本中のお茶の間を和ませる。しかし、プロレスラーとしての姿は真逆だ。昭和プロレスを彷彿とさせる男気溢れるファイトスタイル、そして“俺様”なコメントが、ファンから絶大な支持を得ている。そのギャップの虜になる女性ファンも少なくない。 そんな真壁自身の初の著書となる『だから、俺はプロレスで夢を追う!』(徳間書店)を読むと、想像以上に超ド級の俺様…! ギャップの上をいくギャップに、笑いすらこみ上げてくる。自信の源を探るべく、インタビューを決行した。 ――いま、これだけプロレス人気が高まっているのは、なぜでしょうか。 「昔から、日本経済が落ち込んだときって、国民はいろんなスポーツに勇気づけられてきたんだよ。長嶋(茂雄)さんだったり、王(貞治)さんだったり、千代の富士だったり。プロレスでも、アントニオ猪木や長州
2月22日、欠場中だった“ゴールデン・スター”飯伏幸太が会見を開き、DDTと新日本プロレス、2団体の所属を共に解消し、フリーとして「飯伏プロレス研究所(仮)」を発足させると発表した。 あまりにも唐突の発表となった退団。その経過や真意について、飯伏本人に直撃し、本音を聞いてみた。(取材日:3月1日) ――リング復帰決定と共に、DDTと新日本プロレスの両団体を退団することを発表したのは、かなり反響があったんじゃないですか? 飯伏 そうですね、結構ありました。 ――そもそも、DDTと新日本プロレスの2団体所属になった時は、こんな感じで2団体所属が終わるなんて思っていなかったですよね? 飯伏 最初の頃は単純に2団体所属っていうのを当時誰もやっていなかったし「これ、絶対面白そうだな」っていう興味がありましたね。それで、最初に思ったのは新日本プロレスでは新日本プロレスのスタイルというか、いわゆる正統派
梶原一騎の漫画には最初期の『チャンピオン太』から遺作『男の星座』に至るまで、実在のプロレスラーやプロ野球選手、空手家などが多く登場し、われわれ梶原チルドレン世代は、そこで実在人物たちが演じたエピソードを、あたかも現実にあったことのように受け容れながら生きてきたわけです。梶原一騎のキャリア後半になると、そのフィクションをさらに現実の世界が取り入れ、そしてその現実の世界をさらにフィクションで描いていく、という高度なメタ化が進行していきました。具体的にいうなら『プロレススーパースター列伝』のタイガーマスク篇がもっとも複雑なメタ構造になっています。 プロレススーパースター列伝 夢の英雄! タイガーマスク編 (講談社プラチナコミックス) 作者: 原田久仁信,梶原一騎出版社/メーカー: 講談社発売日: 2012/11/07メディア: コミック購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件)
いま思えば、最初から無理だったようだ。 だけど、前人未到のことだったから、やってみないとわからなかった。 飯伏幸太の、DDTと新日本プロレスの2団体同時所属のことである。 2月22日、DDTの事務所で会見が行われ、飯伏幸太がその両団体を退団することを発表した。 どちらか一方を、ではなく、一気に両団体を離れることに決めた。 飯伏は、昨年9月にDDTの2大会を体調不良で欠場し、10月25日の後楽園ホール大会でも緊急欠場をしていた。以前から左半身の不調を感じていたので精密検査をしたところ、頸椎椎間板ヘルニアと診断される。日常生活を送ることに支障はないが、プロレスの試合は当面無理との医師の判断により、そのまま無期限の長期欠場に突入となった。つまり、公の場に姿を現したのは4カ月ぶりであり、この欠場中に退団という決断を下したことになる。 もともとDDTの所属選手だった飯伏は、新日本から要請される形で、
プロレスにハマッてるとか、プロレスデビューした――プロレスラーとしてデビューしたわけではなくて、生まれて初めてプロレスの試合を観にいったという意味で使われているフレーズ――とかいっている人たちに最近、わりとよく出くわす。たいていの場合、その人たちは新日本プロレスのことをフツーに“プロレス”と呼んでいる。 90年代のプロレスブームの時代、つまり“国会議員レスラー”アントニオ猪木がギリギリ現役で、長州力がいて、藤波辰爾がいて、武藤敬司と橋本真也と蝶野正洋の闘魂三銃士がメインイベンターで、いまでは文科大臣の馳浩、お茶の間タレントに変身した佐々木健介が全盛期だった時代、新日本プロレスは年間売り上げ50億円(推定)の優良企業だった。 しかし、2000年のミレニアムを悪いターニングポイントに年間売り上げは毎年10億円単位で落ち込み、2005年には13億円(推定)に低迷。同年11月、ゲームメーカーのユー
WWEと契約した中邑真輔の未来1月末日で新日本プロレスを退団して2月2日に渡米した中邑真輔が世界最大のプロレス組織WWEと契約しました。KENTA(現地名=イタミ・ヒデオ)、華名(現地名=アスカ)に続く日本人WWEスーパースターの誕生です。デビュー戦は4月1日(現地時間)テキサス州ダラスに決定。かねてから「日本と同じように自分のパフォーマンスを海外の人にも伝えたい」と言っていた中邑の未来は? 日本市場を重要視しているWWE 年頭の1月4日の東京ドームでAJスタイルズの挑戦を退けてインターコンチネンタル王座を防衛し、今年の抱負について「世界ですね。自分の思う、さらなる高みのステージを目指していきていきたいと思っています。ありがとうございました」とコメントした中邑真輔のWWE入りの噂が海の向こうから聞こえていたのは翌1月5日のことでした。 世界最大のプロレス組織WWEは世界各国の有望なレスラー
飯伏幸太がDDTプロレスと新日本プロレスを退団!『飯伏プロレス研究所』を設立した飯伏は「怪しい動きをしたい」 22日、DDTプロレス事務所にて飯伏幸太に関する会見が行われた。高木三四郎社長、鶴見亜門GM、飯伏幸太の3人が会見場に現れると、まずは亜門GMより 亜門GM「飯伏幸太が2月いっぱいをもちまして、DDTプロレスリング及び新日本プロレスとの所属を解除しまして、両団体を退団することになった事をご報告させていただきます。病状の経過といたしまして、長期欠場の原因になりました頚椎椎間板ヘルニアに関しては治療のかいあって完治致しました。その後腰に異変を感じるようになりまして、診断をした所腰椎すべり症であることが判明しました。しかしこれに関しても治療の結果ほぼ完治しておりまして、お医者さんの方からもいつ復帰しても問題ないという診断をもらっております。復帰ということを具体的に考えた時に、本人の中であ
プロレス界の“ゴールデンスター”飯伏幸太(33)が、所属していたDDTと新日本プロレス両団体を退団することが21日までに本紙の取材で分かった。史上初の2団体所属選手として活躍したが、昨年10月から長期欠場。DDT3・21両国大会で復帰するが、同戦から事実上フリーとして活動を再開する。業界に激動が続く2016年は、飯伏にとっても新たな挑戦の年となる。 プロレス界の激動が収まらない。複数の関係者の話を総合すると、飯伏は2月末でDDTと新日プロ両団体との所属契約を解除し退団することを決断。3月から事実上のフリー選手として活動していくことが分かった。 04年にDDTでデビューを果たし、中心選手として活躍。新日プロでもIWGPジュニアヘビー級王座を獲得するなど一気にスターダムを駆け上がった。13年10月からは新日プロとも所属契約を結び、業界初の2団体所属選手となった。近年の「プロレス女子」ブームの中
「あの日、中邑と話したこと? 言わないほうがいいでしょう」 1月30日、後楽園ホールでのラストマッチを最後に、新日本プロレスを退団した中邑真輔。大会終了後の控え室で、長年、犬猿の間柄であった柴田勝頼は、自ら中邑に声をかけていた。 「10年前だったら成立しないシチュエーション、会話だったとは言えるでしょうね。ほかの選手がみんな意外とハケるのが早くて、俺はまだひとりシャワーを浴びたりしてたんですよ。そのあと、なんとなく『まだいるかな?』と思って向こうの控え室を覗いたら、いたんで。(声をかけたのは)たまたまですよ」 ほんの二言三言だったが、2人きりで会話をしてみて、中邑に対する印象が変わることはさほどなかった。ただ、柴田が新日本を退団した10年前の頃と比べて、「意外と物分かりがいいやつなんだな」と感じた。 10年という時間は、人も、取り巻く状況も、大きく変化させていた。 「もし、俺があいつの控え
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