同じ広さの官舎だと思っていたのに、隣の方の敷地が広かったら――。 そんな不公平感が平城遷都につながった可能性があるというユニークな説を、入倉徳裕・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員がまとめた。藤原京や平城京では、碁盤の目状の条坊道路で区画された宅地を、朝廷が身分に応じて支給していたが、藤原京では道路の方位に誤差があり、宅地の区画が均一にならなかった。入倉総括研究員は「貴族らの不満が高まり、遷都の一因になったのではないか」と推測している。 藤原京には東西南北に直線道路が通っており、橿原、桜井両市の発掘調査で見つかった側溝などの道路遺構をもとに検討。道路はほぼ直線だったが、方位については、調査した藤原京跡の東西道路13本が1000メートルにつき30メートルの範囲でばらつきがあった。一方、奈良市内の平城京跡では、17本が5メートル以内に収まっていた。 平行する道路の間隔は、設計上は約133メート