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戦艦に関するa96nekoのブックマーク (12)

  • 榛名 (戦艦) - Wikipedia

    榛名(はるな)は、日海軍の巡洋戦艦[2]、後に戦艦[3]。 金剛型[4]の3番艦。 艦名の由来[編集] 榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の一つの榛名山に由来する[9]。戦艦にもかかわらず旧国名ではなく山岳名をもつ理由は、榛名を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたので、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。艦内神社は榛名神社からの分祀で、艦長以下乗組員が度々参拝し、また榛名神社側も神職を派遣するなどの交流があった[10]。戦後、艦名は海上自衛隊のはるな型護衛艦「はるな」に継承された[11] 建造の経緯[編集] 榛名は当初「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)に発注された。それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかったいわゆる主力艦としては初めて民間造船所に建造発注された艦である。一方、三菱合資会社長崎造船所(のちの三菱

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  • 伊勢 (戦艦) - Wikipedia

    伊勢(いせ)は、日海軍の戦艦で伊勢型戦艦の1番艦である。当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ[1]、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。 艦名の由来は三重県の伊勢国からで、戦後海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれた。歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。 艦歴[編集] 海軍省は1914年(大正3年)10月12日に仮称艦名第五号戦艦を伊勢と命名[2]し、1915年(大正4年)5月10日、川崎重工業神戸造船所で起工[3]。1916年(大正5年)11月12日に進水する[4]

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  • 軽巡洋艦 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月) 軽巡洋艦(けいじゅんようかん、Light Cruiser)は、軍艦の一種。 概要[編集] 軽巡洋艦は防護巡洋艦の後継として登場した、火砲を主兵装とし、軽度な舷側装甲を施した比較的小型の巡洋艦をいう。日語では軽巡と省略される場合もある。 「軽巡洋艦」とは「軽装甲巡洋艦」(Light Armoured Cruiser)の略であり、後に巡洋戦艦に発達した装甲巡洋艦と対置される。 その名前から軽巡洋艦と対をなす重巡洋艦(Heavy Cruiser)は、第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約の結果として軽巡洋艦から派生したものである。 世界共通の「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別する基準が生まれたのは後述するロンドン海軍軍

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  • 朝日 (戦艦) - Wikipedia

    工作艦関東が1924年(大正13年)12月に座礁放棄されて以降、日海軍は工作艦を保有していなかった[90][91]。1931年(昭和6年)頃、朝日に簡単な工作設備が設置された[5][91]。1937年(昭和12年)7月には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので、日海軍は正式に朝日を工作艦に改造する[82][91]。艦橋前にはダミーの木製30cm砲を装備した[92]。呉海軍工廠で改装工事を実施、8月15日に工事を完了した[92]。日露戦当時の朝日水雷長・広瀬武夫が使用していた私室は、工作艦に改造後も記念室として残されていたという[13]。8月16日、海軍は朝日の類別を練習特務艦から工作艦に変更する[18]。朝日は中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した[82][93]。 1939年(昭和14年)3月下旬、上海市の黄浦江に停泊中の朝日で、広瀬中佐の三十

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  • カナダ (戦艦) - Wikipedia

    船体形状はアイアン・デューク級と同じく短船首楼型船体で、艦首形状はこの頃のイギリス式設計の特徴である艦首浮力を稼ぐために水線下部は前方向にせり出した形状となっていた。傾斜のまったくない艦首甲板に35.6cm連装砲塔を背負い式で2基装備し、2番砲塔基部から上方から見て菱形の上部構造物が始まり、甲板一段分上がって三角柱型の艦橋構造を基部として頂上部と中段に見張り所を持つ三脚式の前檣が建っていた。その背後には間隔の狭い2煙突が立つ。煙突の周りは艦載艇置き場となっており、煙突の間に設置されたジブ・クレーン1基により運用された。2の煙突は前後で大きさが異なっており、1番煙突の断面は円形だが2番煙突は前後に長い小判型をしていた。2番煙突の背後から中部甲板上に3番主砲塔が後向きに1基、その後ろに後部見張り台と単脚式の後檣が立ち、艦尾甲板上に35.6cm連装砲塔が後ろ向きに背負い式配置で2基が配置され

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  • 戦艦ミズーリ記念館公式サイト

    戦艦ミズーリ記念館の公式ホームページ。第二次世界大戦の終結の舞台となった戦艦ミズーリ記念館は、現在はパールハーバーを見守るように係留しております。日語による各種ツアーや記念館のインフォメーションなど。スタンダードツアー ツアーガイドが日語でお客様に戦艦の見所を紹介しながら見てまわる約35分間のツアーです。 ツアー詳細

  • ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia

    ドレッドノート(英語: HMS Dreadnought)は、イギリス海軍の戦艦。同名の艦としては6隻目。同型艦はない。 “Dreadnought”(英語)は『Dread:恐怖、不安』『Nought:ゼロ』の合成語であり、「勇敢な」「恐れを知らない」「恐怖心が無い」を意味するが、艦がそれまでの戦艦に比べ格段に強力だった為「(それまでに比べて)格段に大きい」「(非常に)強力である」を意味するようにもなる。艦は弩級戦艦という単語で象徴され、世界中に建艦競争を引き起こした。 概要[編集] 中間砲・副砲を装着せず単一口径の連装主砲塔5基を搭載して当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦である。これにより片舷火力で最大4基8門の砲が使用可能となり「艦1隻で従来艦2隻分」の戦力に相当し、さらに艦橋に設置した射撃方位盤で統一して照準することで命中率が飛躍的に向上、長距離砲の命中率はそれ以上であった。ま

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  • 金剛型戦艦 - Wikipedia

    金剛型戦艦(こんごうがたせんかん)は、大日帝国海軍の戦艦の艦級。日初の超弩級巡洋戦艦であり[5]、また1番艦の金剛は英国で建造され[6]、海外に発注した日最後の主力艦となった[7]。 2番艦比叡、3番艦榛名[8][9]、4番艦霧島は[10]、大日帝国の造船所で建造された[注釈 1]。 就役時は「戦艦の火力と巡洋艦の速力を持つが、防御力は妥協」という巡洋戦艦であったが、当時の主力艦としては採用例が少なかった45口径14インチ砲を搭載した[12][注釈 2]。 ユトランド沖海戦の戦訓に基づく1920年代の第一次改装によって防御力の向上と引き換えに速力が低下し、戦艦となった。外観も、艦橋の複雑化、機関の換装により煙突が3から2に減少するなど、大きく変わった[注釈 1]。1930年のロンドン海軍軍縮条約で[13]、比叡は練習艦になった[14]。 しかし、軍縮条約脱退後の1930年代の第

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  • 霧島 (戦艦) - Wikipedia

    艦名は、宮崎県と鹿児島県の県境に広がる霧島山にちなんで命名された[10]。艦内神社は霧島神宮からの分祀[11]。日海軍の命名慣例については日艦船の命名慣例を参照のこと。なお、名称は、海上自衛隊のこんごう型護衛艦の2番艦きりしまに受け継がれている。 川崎造船所で建造された3番艦榛名と並び民間造船所で建造された初の国産戦艦である。 1番艦金剛はイギリスのヴィッカース社で、2番艦比叡は横須賀海軍工廠でそれぞれ建造された[6]。 艦歴[編集] 三菱造船所(長崎)で建造中の巡洋戦艦 霧島の絵葉書(1914年8月9日消印) 1912年(明治45年)3月17日、巡洋戦艦として前日に起工した榛名と一日遅れ三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[12]。1913年(大正2年)12月1日進水、1915年(大正4年)4月19日、佐世保鎮守府所属として就役した。金剛型3番艦榛名の進水は霧島より

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  • 陸奥 (戦艦) - Wikipedia

    新造時: 45口径41cm連装砲4基 50口径14cm単装砲20門 40口径7.6cm単装高角砲4門 53cm魚雷発射管8門 改装後: 45口径41cm連装砲4基 50口径14cm単装砲18門 40口径12.7cm連装高角砲4基 25mm連装機銃10基 陸奥(むつ)は、大日帝国海軍の戦艦[6]。艦名は青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国に由来する[7][8]。姉妹艦「長門」とともに帝国海軍の象徴として、長く日国民から親しまれたものの、1943年(昭和18年)6月8日に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した[9]。 概要[編集] 軍艦 陸奥は長門型戦艦の2番艦[10]。八八艦隊計画二番手である[11]。1番艦「長門」と共に、日の力の象徴として日国民に長く愛された[注 1]。 横須賀海軍工廠で建造[13]。 また竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった40cm砲搭載戦艦として『世界七大

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  • 戦艦陸奥主砲 船の科学館

    戦艦陸奥主砲 船の科学館 船の科学館の敷地内には戦艦陸奥の主砲が展示されている。 これは昭和45年に引き上げられた4番砲塔の主砲に使用されていた、 四十五口径三年式四十サンチ砲Ⅱ型である。 全長18.8m、重量102t、射程は37.9kmで、 東京駅から発射した場合横浜を軽く飛び越えて戸塚の手前に着弾するそうだ。 陸奥主砲後ろから 陸奥主砲前から 目次に戻る

  • 戦艦陸奥の主砲 -お台場 船の科学館-

    お台場にある船の科学館の庭に展示してある 日海軍の戦艦陸奥の主砲です。 戦艦陸奥は長門型戦艦の2番艦に当たり 当時は世界最強の戦艦群ビック7の1隻と言われました。 展示してあるは沈没した際の陸奥に搭載されていたもので 第4砲塔の物だそうです。 この主砲の口径は41センチで 正式名称は「四十五口径三年式四十一糎砲」です。

    戦艦陸奥の主砲 -お台場 船の科学館-
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