将棋のプロは創造性、記憶力、判断力、集中力、論理的思考力などの能力が突出している。 せっかくの天才的頭脳を将棋などという、生産性ゼロのくだらない無益な遊びに費やすなんてどうかしている。 羽生善治や藤井聡太だって、将棋が無い世界に生まれていたら、天才プログラマーになって世界を変革する素晴らしいサービスを生み出していただろう。 将棋なんてくだらないものがあるせいで貴重な才能が失われている。将棋を今すぐ廃止するべき。
「東ロボ」を主導した数学者が「読解力がない子どもにプログラミングを教えても、意味がない」と主張する理由:特集:小学生の「プログラミング教育」その前に(8) 2020年度から小学生のプログラミング教育が始まる。官庁や教育機関、企業を巻き込んだ教材開発やデモ授業などが進む中、国立情報学研究所の新井紀子教授は、AIや全国の子どもを対象にした研究活動の成果から「プログラミング教育以前に、学校は子どもの『読解力』を伸ばすべき」と主張する。その理由とは。 こんな状況を想像してほしい。あなたは小学生の子どもを持つ親で、AIの導入やモノのデジタル化が進む将来を見据えている。そのため、自分の子どもには、 最新の環境で、優秀な講師によるプログラミングの授業を受けさせるつもりだ。20年後、あなたの子どもは、プログラミングを深く使いこなし、自分のアイデアをコンピュータで形にできる大人に育つだろうか? 2000年代
学問においていちばん大事なのは、問題をどう解くかではない。どのような問題を設定するかである【アルキメデス】。 アルキメデスが言ったというのはウソだけど、どういう問いかけをするかが重要というのはホントである。この本が問いかけるのは、ドーナツを穴だけ残して食べることができるか、という哲学的命題だ。この、まったくどうでもいい問題を聞いておもしろがれるかどうか、で、人類を二分することができる。 この人類にとっての超難問に対して、大阪大学の教員たちが堂々と名乗りをあげた。13名それぞれが専門を武器に立ち向かう真の学際的アプローチだ。なかには、その論考のどこがこの問題に関係しとんねん、と言いたくなるのもないわけではないが、そういった牽強付会というのも学者につきものの性癖なので、がまんしてあげましょう。 そこは気にせず、いくつかのすぐれた論考を紹介しよう。まずは数学者。数学者の思考はやはり違う。 “そも
増田で、この記事が話題になっていました。 正社員に仕事を教えたくない 私は今年で契約が切れるパート。同じ部署に昨年、数歳年下の新入社員が配属された。 彼女は私が少ない仕事から数年かけて学び、また効率的に処理できるように試行錯誤して会得したノウハウを、たくさんの仕事の中でどんどん吸収している。これまで私しか使えなかったソフトも、ほぼ同じくらい使えるようになった。 この記事書いた人の仕事の内容はよく解らないので元ネタに対するコメントは差し控えます。一方で、これを見ていたIT系エンジニアのクラスタっぽい人々が、技術職にとっては技術を伝えると自分の価値が無くなるよなぁ的な発言をしているのを幾つか見たののが興味深かったです。なので、ITエンジニアにとっての技術と、それを伝えるということを考えてみました。前提として、ITエンジニアの技術についてです。製造業の技術流出は別の問題だと思うので、対象にしてい
自分がしたこともないのに、「こうしろ、ああした方がいい」と言う。 言うのはかまわないけど、全く無意味な、「もう既にしています」程度のことしか言えない、 もしくは「非現実的」というようなことしか言えない。 特別、なにか目新しい、効果的な方法をあげることもできていないのに。 「何十年もやってきたので、もうそれは知ってます。それだけでは無理です。防げません。」 と、意味がないよ、と言っているのに。 それをやったこともない人が、「無意味じゃない」って。 何の根拠があって、意味がある、と断言できるのだろう。 だって、自分がしてきたことでもないのに。 防犯や武道のプロでもないのに。 こっちの状況をわかってもいない、わかろうともしないのに、 “ボクが考えた「自衛」の方法”に賛同しろ、と言われても、無理な話。 100人のうち1人救えばいい、って言っているけど、 誰でも思いつくようなことで、救えるわけない。
元「エジプト アラビア語語学留学ブログ」。翻訳と留学記録・旅行記、イスラーム関連のメモ سبحان الله وبحمده سبحان الله العظيم クルアーンのユースフ章のタフスィールを読んでいて、ふとしたことからF女史と大変熱い信仰談義になりました。 彼女は敬虔なムスリマですが、外国人との付き合いが多く、非常に柔軟で幅広い知見を持っています。 確かكافر不信仰者مشرك多神教徒ملحد無神論者という言葉を巡り「ムスリムなら、例えば牛の肉を食べる時に与えてくれたアッラーに感謝するが、ほとんどの日本人は牛そのものに感謝する。偉大な山を見て敬虔な気持ちなった時、ムスリムはアッラーの偉大さを称えるが、多くの日本人は山そのものに『神性』を見出す。しかし、ここでの『神』はアッラーのような概念とまったく異なり、神様が沢山いる、という意味ではない」とかいう話をしていた流れだったと思います。
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