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ブックマーク / blog.tatsuru.com (8)

  • 党首か市長を探しています - 内田樹の研究室

    今月1日に大阪市の公募区長に就任した榊正文・淀川区長(44)が個人のツイッターで、自身を批判した相手に「アホ」「暇人」などと発言していたことがわかった。自身もツイッター上で過激な発言を繰り返している橋下徹市長は9日の記者会見で、「(区長は)公選職でなく、僕と同じやり方はできない。有権者へのアホとかバカという言葉遣いは行政職としては許されない」と述べ、処分を検討する方針を示した。 榊区長は人材派遣会社役員から転身。今月7日にツイッター上で、「これまでの暴言について明確に謝罪してからが初めてスタートライン」と区長就任後の挑発的な発言を批判され、「アホか、相当な暇人やな」と発言していた。 榊区長は「問題と言われるなら問題かもしれない。ただ私的なツイッターであり、特定の人にアホと言ったのではない。 (ツイッターには)変な人や行儀の善くない人たちがいっぱい来る」と話した。(毎日新聞、8月9日) 少し

    t_yano
    t_yano 2012/08/12
    なぜか大阪のことになると、勝手な前提がいろいろ入るみたいだな…
  • 平松さんの支援集会で話したこと - 内田樹の研究室

    10月17日の平松邦夫市長を励ます会で「おせっかい教育論-教育条例の時代錯誤について」という講演をした。 講演録はそのあと『橋下主義を許すな!』というに採録された(香山リカ、山口二郎、薬師院仁志との共著、ビジネス社)。 選挙の応援のための、いささか「煽り」の入ったなので、手に取るのを控えた方も多いと思うが、私の書いていることはいつもの原則論である。 教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない 平松市長から教育関係の特別顧問をと委嘱されて、お引き受けした時に、「大阪市の特別顧問に任ず」という委嘱状を頂きました。紙一枚もらって終わりだろうと思っていたら、いきなり「さあ、これから記者会見です」と言われました。そんな話聴いてなかったので、何の準備もしていない。いきなり記者会見に連れ出されて、「内田さんの顧問としての抱負を」と尋ねられました。何も考えていなかったのですが、そういうときの

    t_yano
    t_yano 2011/11/25
    最後のほうで自ら書いているように、挙げられている、荒廃した教育現場の姿こそが「現場に任せた」結果なんでしょう? 教育への政治介入の問題はわかるけど、そこに持って行く論旨には納得がいかない。
  • 日本の人事システムについて - 内田樹の研究室

    ツイッターで茂木さんが就職活動について書いている。 多くの点で、私も同意見である。 けれども、完全には同意できないところもある。 意見が違うというのではなく、話を「切り出す順番」が違うということなのかも知れない。 それについて考えてみたい。 茂木さんはこう書いている。 「大卒2割、就職も進学もせずという今朝のニュース(http://bit.ly/9IP2QS )に思うところあり、日の就職について連続ツイートします。 大学3年の夏から、実質上就職活動が始まる日の慣習は、明らかに異常である。学問が面白くなって、これからいよいよ格的にやろうという時に、なぜ邪魔をするのか。 そもそも、新卒一括採用という慣習は、経営的に合理性を欠く愚行だとしか言いようがない。組織を強くしようと思ったら、多様な人材をそろえるのが合理的である。なぜ、一斉に田植えでもするように、同じ行動をとるのか? 日の企業が

    t_yano
    t_yano 2010/08/07
    『「自分にどのような社会的能力が欠如しているのか開示されないままに、その能力を査定されるゲーム」に参加させられているという理不尽さである。』
  • 英語嫌いを作る方法 - 内田樹の研究室

    電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。 必ず失敗するだろうと予言する。 英語を社内公用語にするということは、英語運用能力と年収や地位の相関性が高まるということである。 とりあえず英語ができない人間は、どれほど仕事ができても、幹部には登用されない。なにしろ会議に出ても、みんなが何を話しているのかわからないんだから。 そのような人々は会社を移らざるを得ない。 「仕事はできるが英語はできない」という人間を排除して、「仕事はできないが英語はできる」という人間を残した企業がそれによってアクティヴィティを高めるであろうという見通しに私は与さない。 現に、英語運用能力と「報償」の相関をダイレクトなものにしたことによって、日人の英語運用能力の劣化は生じたと私は考えている。 現在の日の大学生の英語運用能力の劣化は著しい。 たぶん現在、日の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さ

    t_yano
    t_yano 2010/07/25
    個人的に英語に「興味をもった」きっかけを考えると,英語がいくら大事だと言っても意味がない。「英語で何が出来るか」のほうが重要。例えばバスケ好きの子には,バスケ雑誌で英語を教えるべきなんだと思う。
  • そんなことを訊かれても - 内田樹の研究室

    仕事始めに取材がふたつ。 太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。 媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。 20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。 生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。 『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。 「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。 もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。 けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。 それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。 めんどうだが、そういう仕事を電

    t_yano
    t_yano 2010/01/09
    危機とリスクの話。今起きているのはリスク程度ではなく危機であるのに,リスクとして対処しているという話。
  • 「内向き」で何か問題でも? - 内田樹の研究室

    先日、苅谷剛彦さんと対談したときに、日のように「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が1億以上」というような市場をもつ国は世界にほとんど存在しない、ということを指摘していただいて、「ほんとにそうだよな」と思ったことがある。 「国内に同国語の十分なリテラシーをもつ読者が一億以上」いるということは、言い換えると、「日語を解する読者だけを想定して著作や出版をやっていても、飯がえる」ということである。 日人が「内向き」なのは、要するに「内向きでも飯がえる」からである。 「外向き」じゃないと飯がえないというのは国内市場が小さすぎるか、制度設計が「外向き」になっているか、どちらかである。 どうしてそんなことを考えたかというと、テレビ政治討論番組で「フィンランドに学ぶ」という特集をしているのを横目で見ていたからである。 フィンランドはノキアという携帯電話のシェア世界一のブランドを有して

    t_yano
    t_yano 2009/01/05
    私はむしろ、サービス業の類については日本はかなり面白いところなので「世界標準」とやらに合わせるんじゃなくてそのまま輸出したほうがいいものがあると思ってるんだけど/あと、アメリカの真似したら国が滅ぶよ。
  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

    t_yano
    t_yano 2008/05/14
    統合失調症云々についてはおいておく。「「自分自身にかけた呪い」の強さ」という点についてなるほどと思ったのでブクマ。
  • 小学生に英語を必修させる必要があるのか? - 内田樹の研究室

    文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。 愚かなことである。 日語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。 特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。 英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。 論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。 「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。 これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。 けれども、そのような学生たちの教場での

    t_yano
    t_yano 2008/02/18
    いまの教科書のまま小学校から英語やったって無意味。私の弟は小学校のときに英語の教室に通ってたけど、中学で結局みんなとおなじになっちゃったもの。中高の教科書をTOEFL前提のものにするとかしないと。
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