「コブラ」の漫画家・寺沢武一さん死去、68歳 「デジタル漫画」先駆け、98年に脳腫瘍判明も創作続ける
テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」の語り手として知られる俳優の常田富士男(ときた・ふじお)さんが18日午後、病気のため入院していた東京都内の病院で死去した。81歳。通夜、葬儀は近親者で執り行う。自宅は非公表。 1937年、長野県生まれ。小学3年から南小国町で育ち、済々黌高定時制を卒業後、上京。劇団民芸の養成所に入った。俳優としては、黒沢明監督の「赤ひげ」や、今村昌平監督の「楢山節考」「うなぎ」、中山節夫監督の「原野の子ら」などに出演した。 「まんが日本昔ばなし」では、女優市原悦子さんとのコンビで1975年から94年まで語り手を担当。「むかーし、昔のことじゃったあ」との味わい深い語りで視聴者を魅了した。宮崎駿監督のアニメ映画「天空の城ラピュタ」でも声優を務めた。 関係者によると、常田さんは数カ月前から、脳出血で入院していたという。(中原功一朗)
東芝元社長で日本郵政の社長や東京証券取引所の会長などを歴任した西室泰三(にしむろ・たいぞう)氏が18日までに死去していたことが分かった。81歳だった。東芝社長に1996年に就き、豊富な米国駐在の経験を持つ国際派として経営改革を進めた。経済人としての活動にも精力的に取り組み、経済政策の論客として知られた。
野際陽子さん13日に亡くなる、81歳 2017年6月15日20時16分 スポーツ報知 野際陽子さん 1975年、インタビューに応じる39歳の野際さん 「キイハンター」「ずっとあなたが好きだった」など多くのテレビドラマで活躍した女優の野際陽子さんが13日に死去したことが15日、分かった。81歳だった。関係者によると通夜、葬儀は終了したという。現在放送中のテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの郷」(月~金曜・後12時30分)にレギュラー出演しており、突然の訃報に周囲も驚いている。 昨年4月に一部週刊誌で、2014年に肺がんを患い治療し、15年に再発し腫瘍の摘出手術を受けたことが報じられた。所属事務所は「野際は健康問題を含め、個人的な事柄につきまして公にコメントすることは遠慮させていただきたい」と回答。「今までもいくつかの病を経験してはおりますが、元気で明るく過ごしております」とコメントしていた。また
アニメ「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の声や洋画の吹き替えなどで活躍した声優の大平透(おおひら・とおる)さんが12日、亡くなった。 86歳だった。 東京都出身。ラジオアナウンサーとして活動を始め、1956年、米国のテレビ映画「スーパーマン」でスーパーマンの声を担当。字幕から切り替わったばかりの生吹き替えに苦労しながらも、魅力的な低音で一躍人気者となった。「おはようフェルプス君」で始まる「スパイ大作戦」の指令テープの声や、映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーの吹き替えも担当した。 アニメでは「おらぁグズラだど」「ハクション大魔王」の主役のほか、米アニメ「ザ・シンプソンズ」のホーマーでも印象を残した。1989年に始まった藤子不二雄(A)原作の「笑ゥせぇるすまん」は、大人向けのアニメとして放送され、喪黒の「ホオーッホッホッホッ」という不気味な高笑いが話題を集めた。そのキャラクターは、近年のウ
withnews.jp 任天堂社長の岩田聡さんが2015年7月11日に亡くなられました。 享年55歳。 発表されていた病名は、かなり予後が厳しいものではありましたが、手術のあとも精力的に活動されていたこともあり、突然の訃報に驚きました。 僕にとっては、殿上人のような存在である一方で、同じ時代を生きた、少し年上の「ゲーマー」として親しみを感じるところも多くて、僕は岩田さんと、岩田社長の任天堂を、ずっと応援してきたのです。 というか、岩田さんは僕も遊んでいたファミコンの『ピンボール』や『バルーンファイト』『ゴルフ』などをつくっていたそうですから、僕のゲーム人生と同じくらい、日本にテレビゲーム文化が生まれてからいままで、ずっとゲームをつくりつづけてきた人でもあったのです。 まだ42歳で任天堂の社長に抜擢された際、「若すぎる」「経験不足なのでは」という声があがった際に、岩田さんは、プレッシャーを感
日本を代表するゲーム会社・任天堂の代表取締役社長・岩田聡さんが、7月11日、胆管腫瘍のため55歳の若さで逝去。それに対し、任天堂のWiiU専用TPS(3人称視点シューティング)ゲーム『Splatoon』(スプラトゥーン)のゲーム内で、岩田社長への追悼コメント・イラストが続々と投稿されている。 これは、Wii Uに内蔵されているネットワークサービス「Miiverse」(ミーバース)を利用して投稿されたもので、多くのユーザーが岩田社長に向け、感謝の意や冥福を祈るコメントを投稿している。 岩田社長、たくさんの「遊び」をありがとう! 『スプラトゥーン』は、任天堂がオリジナルで新たに制作した作品で、オンライン対戦シューティングという、ゲーム初心者が参入しづらかったジャンルの敷居を誰でも楽しめるところまで下げ、6月下旬には世界累計販売数が100万本に達したゲームソフト。 ハイカラシティと呼ばれる街では
7月13日、任天堂は、岩田聡社長が11日に胆管腫瘍のため死去したと発表した。5月撮影(2015年 ロイター/Toru Hanai) [東京 13日 ロイター] - 任天堂<7974.T>は13日、岩田聡社長が11日午前4時47分、胆管腫瘍のため京都市内の病院で死去したと発表した。55歳だった。任天堂によると、数日前から体調を崩して入院し、容態が急に悪化して亡くなったという。 昨年6月に胆管腫瘍の切除手術を受けて一時療養していたが、8月の盆明けに業務を再開し、10月には4カ月ぶりに公の場に姿を見せるなど復帰をアピールしていた。昨年6月に欠席した株主総会も、今年6月26日には出席して議長を務め、続投が決まったばかりだった。 岩田氏の死去によって、任天堂は、宮本茂専務と竹田玄洋専務の2人が代表取締役となる。後任社長は未定としている。 岩田氏は2000年に当時社長だった故山内溥氏に招かれて任天堂に
11日亡くなった任天堂社長の岩田聡さんは、老若男女を問わず幅広い層にゲームの楽しさを届け続けた。2画面の携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」や、体感型のゲーム機「Wii」などを世に送り出し、独創性にこだわり続けた。 「娯楽は他と違うからこそ、価値がある」。2002年に42歳で社長に就いた岩田さんは、そんな思いで任天堂らしいゲームの開発を続けた。ライバル社が高精細の映像表示などを売りにするゲーム機を出すなか、独自性に力を入れた。04年発売の「DS」は1億5千万台を超えるヒットを記録した。06年発売の「Wii」もリモコンを振って遊ぶ斬新さが受け、世界で1億台超が売れた。 東京工業大在学中にゲームソフト会社「ハル研究所」でアルバイトし、そのまま就職した。「星のカービィ」など人気作を送り出し、業界で「天才プログラマー」として知られた。その実力を任天堂社長だった故山内溥氏に評価され、同社に入社した。
任天堂の岩田聡(いわた・さとる)社長が55歳で死去したことを受けて、コピーライターの糸井重里さんは7月13日、「うん。(あの世で)また会おうや」と、独特の言い回しでその若すぎる死を悼んだ。自身のブログ「ほぼ日刊イトイ新聞」に、次のように書いた。 どんな別れのときにでも、 「また会おう」と言えばいいのだと思う。 ともだちだから、また、会う。 それはちっともおかしくない。 うん。また会おうや。 ずいぶんと遠くまで旅に行くんだって。 もっとずっと先の予定だったのにね。 いちばん似あう服を着て、 「急のことですみません」と、 ことばには出さないけれど、そう言ってた。 (ほぼ日刊イトイ新聞 - 今日のダーリン )
「岩田社長、ありがとう」――。7月11日に亡くなった、任天堂の岩田聡社長を追悼する声が、Twitterに多数投稿されている。
Something went wrong, but don’t fret — let’s give it another shot.
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