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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (2)

  • 引付頭人奉書 - 我が九条

    http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20140303/p1#c1394330265においてせいすいえいこ氏とやりとりをし、氏のサイトを拝読する機会を得たので、氏のサイトに載っている史料の中から、私に論評できる史料の検証を行おうと思う。 題材は『東寺百合文書』ホ函にある二通の引付頭人奉書。 東寺八幡宮雑掌申山城国 久世庄事、申状〈副具書〉如此、早広田 出羽亮五郎相共莅彼所、退濫妨 人、沙汰付下地於雑掌、可執進 請取状、使節緩怠者、可有其咎之 状、依仰執達如件、 正平七年二月廿五日       陸奥守(細川顕氏)(花押) 海部但馬守殿 画像は「http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=1827&p=4」 東寺八幡宮雑掌申山城国 久世庄事、申状〈副具書〉如此、早海 部但馬守相共莅彼所、退濫妨 人、沙汰付下地於雑掌、可執進

    引付頭人奉書 - 我が九条
    kaos2009
    kaos2009 2014/03/15
  • 中世の北海道史と一次史料 - 我が九条

    歴史学においては一次史料を中心に書くのが基である。 とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。 『満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録

    中世の北海道史と一次史料 - 我が九条
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