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物語に関するono_matopeのブックマーク (9)

  • バゴンボの嗅ぎタバコ入れ / カート・ヴォネガット

    バゴンボの嗅ぎタバコ入れ (ハヤカワ文庫SF) 作者: カートヴォネガット,Kurt Vonnegut,浅倉久志,伊藤典夫出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2007/09/01メディア: 文庫 クリック: 27回この商品を含むブログ (30件) を見る■ヴォネガット最後の短篇集 カート・ヴォネガット最後の短篇作品集。とは言っても執筆された年代は1950〜63年のごく初期のものであり、雑誌掲載作品などオリジナル原稿の存在しない作品を研究家が地道に集めて編纂されたものであるという。そういった意味で作者の落ち穂拾い的な習作作品を想像して読み始めたのだが、どうしてどうして、どの短篇にもヴォネガットらしさがたっぷり詰まった珠玉の作品集となっている。むしろ、最初っからヴォネガットはやっぱりヴォネガットだったんだなあ、と思わせる優しさや暖かさが伝わってきて、ヴォネガットよ、当にこれが最後になっちゃ

    バゴンボの嗅ぎタバコ入れ / カート・ヴォネガット
    ono_matope
    ono_matope 2007/11/04
    ヴォネガット創作講座
  • 今宵、吉祥寺バウスシアターで-虚馬ダイアリー

    原題:A Prairie Home Companion 監督:ロバート・アルトマン 原案・脚・出演:ギャリソン・キーラー 原案:ケン・ラズブニク 映画を見るとは何か。それは作品との「出会い」である。俺はそう思う。批評なんてくそくらえ。人も映画も、出会い方ですべてが決まる。映画とのすばらしい出会い方こそが、映画にとってもっとも重要なことだ。 そして俺がそこを訪れて、その作品に「出会った」のは、まったくの偶然だった。 いや、偶然というのは正確ではない。そこにかかっている作品は是非見たいと思っていたし、前売り券も買っていたのだが、私がまごまごしているうちに、メイン館での上映は終了し、そこでのレイトショウが都内の劇場で、その作品を見る最後のチャンスになってしまっていたのだ。 ゴールデンウィーク中(と言っても俺には関係ないんだけど)の間に行っておこうとおもいながら、気がつけばその日が最終日。 私は

    今宵、吉祥寺バウスシアターで-虚馬ダイアリー
    ono_matope
    ono_matope 2007/05/14
    俺にとってのそれは、浪人時代にうらぶれた映画館で受付のねーちゃんがチケットを間違えたせいで観た『道頓堀川』かな
  • 私を食べて下さい。それが彼女の最初で最後のわがままだった。 彼女が死ん..

    私をべて下さい。それが彼女の最初で最後のわがままだった。 彼女が死んで3日後。準備は全て済んで後は待つだけとなった。1日目にはホームセンターにノコギリと寸胴鍋を買いに行った。2日目には彼女を風呂場で切断した。愛する彼女を切断するのは気が引けたけど、そのままではべることができないので切断した。そして3日目。バラバラに切断した彼女を寸胴鍋に入れて煮えるのを待っている。火で炙ろうかとも思ったのだけど、彼女は火葬が嫌だと言っていたのでやめた。ぐつぐつぐつぐつ。彼女が入った寸胴鍋をぼーっと見ている。ノコギリで切断したときも思ったことだけど、愛する彼女が肉片になっていくのはやはり悲しかった。それもノコギリで自分が彼女をバラバラに、肉片に、彼女を分解していく感触は堪らなかった。しかし、ぐつぐつと煮える鍋をぼーっと見ていた。涙も胃の内容物も、彼女が死んでから何もべていなかったので胃液しかなかったが、

    私を食べて下さい。それが彼女の最初で最後のわがままだった。 彼女が死ん..
    ono_matope
    ono_matope 2007/02/09
    浪人時代ノートにこういう話書いた…/共食いするとプリオン病に罹るよ。
  • 桃太郎はなぜ鬼を退治しに行ったか

    もともと、鬼というのは両義的な存在です。 つまり、人にとって一方で恐怖すべき存在であると同時に、またある面では福徳や恩寵をもたらすこともある、という相反する存在として信じられていたのです。このように両義的であって、世俗的な感覚で単純に“白黒つけがたい”存在であることこそが、その力の源泉であったと言えます。 この鬼というのも、後代には世俗化してきます。鬼という概念がいわば消費されてしまって、「単純な悪者」としてのイメージが固定化してしまうにつれて、その力があまり信じられなくなってくるわけです。 鬼がカリカチュアライズされ、具体的な「悪者」になったことで、必ずしも恐ろしい存在ではなくなった、と言えるでしょう。結果、来は語義矛盾であるはずの「弱い鬼」、「人間に負けて退散する鬼」といったものがやがて人々の意識のなかで一般化するわけです。 しかし一方で、「福徳を授けてくれる」という鬼のもうひとつの

    桃太郎はなぜ鬼を退治しに行ったか
  • 2006-11-27

    ある青年が癌になった。それはどうしようもなく進行していて、余命は3ヶ月だと診断された。3ヵ月後、彼はこの地上から消えることになる。 死を目前にして、すさまじい恐怖の中ですさんでゆく男。それはまるで、残り少ない命を無駄遣いするかのように。死にたくない、死にたくないと叫びながら、彼は手首を切る。死にたくないのに怖いから死んでしまおうという倒錯が彼を捉える。 しかし、そんな彼の前に、ささやかな奇跡が訪れた・・・。 という物語があったとして、主人公が癌になった「理由」なんて求める読み手や鑑賞者がいるだろうか。もちろんいない。若くして癌になるのに、そもそもほとんどの場合理由などないからだし、物語の主眼は、彼が癌によっていかに絶望へと叩き込まれ、そこからささやかな希望を足がかりにして、残り少ない命をいかに見つめなおすか、というところにあるからだ。このお話を見たあとで「でもさ、主人公ってなんで癌になった

    2006-11-27
    ono_matope
    ono_matope 2006/11/28
    ゲドの時も同じ事を感じた。『息子が父親を殺した理由が全然判らない→だからクソ映画』という、…。
  • 『魔法先生ネギま!』:少年漫画のワクに落とし込むには? - ピアノ・ファイア

    予告していた通り、物語三昧に投稿された「名も無き読者」さんのレポート、 夕映の答えと超の反論予想/さらにそれを覆すネギの論、の予想 関連:海燕さんの反応(その補記) ……を受けて、「超鈴音編」の結末に関する議論をしてみたいと思います。 あちらのコメント欄でも書いたことですが、いずみのが持ってる「少年漫画観」をキーにした考察を、ちょっと書きたくなったんですね。 名も無き読者さんのレポートにも「少年漫画として〜」というフレーズは確かに出てくるのですが、どうも一連の議論の流れからはむしろ、「少年漫画として読む」という観点から離れているような印象を受けてましたので、「これは補足を入れたいな」と。 というわけで、今回はチャットを利用して意見をまとめたものを発表してみます。以下のリンクからどうぞ。 第一部 聞き手:はしさん、大槻牧場さん 第二部 聞き手:はしさん、大槻牧場さん、水音さん、結城忍さん、b

    『魔法先生ネギま!』:少年漫画のワクに落とし込むには? - ピアノ・ファイア
    ono_matope
    ono_matope 2006/10/26
    漫画は読んでないけどマンガ評は読むという俺
  • 物語要素事典

    <BODY> <P>このページは、フレーム機能をサポートするブラウザで表示するようデザインされています。このテキストは、フレーム機能をサポートしないブラウザで表示されます。 </P> </BODY>

    ono_matope
    ono_matope 2006/09/18
    weblioに登録されたので知った。これはすごい。
  • ガリガリに痩せた父の姿を見たのはこれがさいごだった。 : ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd

    0.0点 (0票) ガリガリに痩せた父の姿を見たのはこれがさいごだった。 2006年09月17日 16:06| コメントを読む( 67 )/書く| 人気記事 Tweet http://life7.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1096292427/ 121 :おさかなくわえた名無しさん:04/11/12 14:05:14 ID:NDPYs8hu 父親が発売日にFCのDQ4を買ってきた。 私と弟とで順番にクリアしたあと、父親はなぜかずっと 4章のトルネコの序盤(店でひたすら武器とか売りまくる)を続け、 それだけで5万も6万もゴールドを貯めていた。 思えば父親は2でも全員のLVをMAXまで上げたり 単純作業が好きなのかなと思っていたが もう、一度クリアしてしまったそれらのゲームで また私や弟が遊ぶときにキャラが強かったりお金が多いと喜ぶだろうと それだけのためにちょ

    ガリガリに痩せた父の姿を見たのはこれがさいごだった。 : ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd
    ono_matope
    ono_matope 2006/09/18
    叙述トリックというやつですか。ドンデン。
  • 2006-07-30

    あるいは「そもそも教養となることなど期待されずに作られたものでも、年月を経て残れば教養と呼ぶに足るものになることもありうる」、もしくは「100年の歴史も無いものが今は教養と呼べるはずが無いでしょ」という話。 三つの過去の事例と、それを現代に敷衍した場合の話。 この記事は 「漫画教養ではない」http://d.hatena.ne.jp/noon75/20060724/1153752573 に影響を受けて書かれ始めましたがなんか全然違う方向に行っちゃったものです。 物語の続きを知る為に押しよせた人々-ディケンズの物語の続きを知りたがった人達-(1841年頃) アメリカでの事例。 ディケンズの小説教養かどうかは、見解の相違も多々あるとは思います。 しかし、150年以上の間読まれ続けてる作品が有るのは事実と言っていいでしょう。 ディケンズの作品は連続読物("分冊")のかたちで刊行された。 こう

    2006-07-30
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