18歳で98年フランスワールドカップ(W杯)に出場した小野伸二(札幌)。世界中から注目された若きタレントが初めて海外移籍に踏み切ったのが2001年だった。 当時オランダ3強の一角・フェイエノールトへ赴き、移籍1年目にはUEFAカップ(現UEFA欧州リーグ)を制覇。クラブレベルで欧州タイトル獲得時の主力選手となった日本人は後にも先にも彼だけだ。 小野は「ホームスタジアムでボルシア・ドルトムント(ドイツ)と決勝を戦えるなんて幸せなことはない」と偉業達成の瞬間を回想する。 彼が欧州で存在価値を示さなければ、その後に訪れた日本人選手の大量移籍時代もなかった。 この20年間で日本サッカーの立ち位置や環境はどう変わったのか。先駆者が思いを激白する。 中田英寿に刺激を受けて海外に挑戦 93年のJリーグ開幕後、最初に欧州移籍に踏み切ったのがカズ(三浦知良=横浜FC)だった。94年に当時世界最高峰と言われた
オーストリアのクラブ、シュトルム・グラーツには今もオシム伝説が残る。グラーツの観客席の垂れ幕には今もオシムの顔と名前が……。 イビチャ・オシムと電話で話したのは先月のこと。ヨーロッパではコロナウィルスの影響が深刻化し、すでに各国が非常事態を宣言して日常生活に大きな制約を加えていた時期ではあったが、日本にはまだそこまでの危機意識がなかったころだった。それから時間がたち、日本の状況も大きく変化した。 オシムはこの新型コロナウイルスによる社会をどう捉えていたのか――タイムラグを経てもなお心に直接響いてくる彼の言葉に耳を傾けよう。 「今はこちらの方が日本よりも深刻だ」 ――元気ですか? 「ああ、君らはどうだ。いろいろ問題があって、あらゆる活動が停滞している」 ――その通りです。 「問題は本当に多い。こちらは移民も多く、人が移動するからなおさらだ。避けるための手段が多くあるわけではない。危機は徐々に
ユヴェントス所属のポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウドが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて行動を起こしたようだ。スペイン『マルカ』が報じている。 報道によれば、C・ロナウドはポルトガル国内に複数所有する自身のホテルCR7を、病院として無償提供することを決断。医師や従業員などの給与は、自らが負担する。 C・ロナウドはこの行動を起こす前、SNSを通じて「僕はサッカー選手としてではなく、1人の息子、父親、全世界に影響を及ぼす最近の出来事に関心を持つものとして、話すよ。僕ら全員がこの状況に対処するために、WHO(世界保健機関)及び管理機関のアドバイスに従うことが重要なんだ。命を守ることは、他の利益よりも優先されなくてはいけない」とのメッセージを発信していた。 ※情報更新:3月15日22:00 その後、『マルカ』の報道が誤報である可能性が出ております。当該ホテルは『Goal』の「報道は事
現地時間12月19日、ついに日本代表MF南野拓実がプレミアリーグの名門リヴァプールに移籍すると正式に発表された。 奇しくも、この移籍報道が出た12月12日、『REAL SPORTS』では香川真司にインタビューを実施していた。香川のインタビュー記事は後日あらためて掲載するが、今回はその中から、ビッグクラブへとステップアップした同じ“セレッソ大阪育ち”の仲間について話してくれた部分を先行してお届けする。 (インタビュー・構成=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]) ――南野拓実選手のリヴァプール移籍が確定的となりました(編集部注:このインタビューは南野選手のリヴァプール移籍確定的報道が出た2019年12月12日に実施。その後、12月19日にリヴァプールが南野選手の加入を正式に発表)。 香川:いや素直にビックリしました。拓実はすごいと思います。それこそ、2018年のロシア・(FIFA)ワール
J2京都の元日本代表DF田中マルクス闘莉王(38)が今季限りで現役を引退することが24日、明らかになった。柏に大敗した現役ラストの一戦は味方との接触で負傷し、前半45分でピッチを退き、病院に直行した。 【写真】日本代表でも活躍…W杯南アフリカ大会・パラグアイ戦で激しく競り合う闘莉王 今季はJ2リーグ30試合に出場。本職のセンターバックだけではなく、終盤にはFWとして起用されるなど存在感は別格だった。だが“闘将”と呼ばれるように、闘争心を前面に打ち出すスタイルで体は満身創痍(そうい)。6月には右眼外傷性黄斑円孔で視力が落ちて手術も行った。プロ19年目の今季をラストシーズンと位置づけていた。 ブラジルで生まれた日系3世。03年に日本国籍を取得し、04年アテネ五輪に出場した。10年W杯南ア大会では昨年限りで現役を引退したDF中沢佑二氏とともに4試合2失点の鉄壁の守備を誇り、決勝トーナメント進出に
今季限りでの現役引退するサッカー元日本代表、J3相模原のGK川口能活(43)が14日、相模原市役所で引退会見を行った。アトランタ五輪でブラジル代表に勝利した「マイアミの奇跡」、W杯4大会連続メンバー入り、00年と04年のアジア杯優勝、A代表出場116試合といった数々の金字塔を打ち立てた日本の守護神は、時折、こみ上げる思いを飲み込みながら、「もう一度サッカーをやるとしてもキーパーをやると思います」と言い切った。 【写真】アトランタ五輪での歴史的勝利に歓喜する川口 やや緊張した面持ちで登壇した川口は「今シーズンで引退することを決めました。今は感謝の気持ちしかありません」と心境を語った。会見前に100人を超える報道陣が集まった会場の写真を見て涙していたといい、「僕のためにこれだけのみなさんが集まってくれたことに、本当に感謝の気持ちしかありません」と少し声をうわずらせて感謝した。 「実は、この1年
中田英寿という天才フットボーラーがいた。 彼は常識を疑い、常に世界トップレベルを見据える稀有な存在だった。 それはどうやら少年時代から変わらなかったそうだ。 中田を指導したコーチのエピソードを紹介したい。 スポンサードリンク 引用元:それでも「美談」になる高校サッカーの非常識 山梨県南アルプス市で「フォルトゥナサッカークラブ」を主催する皆川新一が、指導者として生きていこうと決断したのも、教え子だった中田英寿に後押しされたからだった。 皆川は、山梨日日新新聞が発行した「山梨のサッカー」で綴っている。 《理念や知識、指導技術のないコーチング姿勢が、いつまでも通用するはずがないのです。そのことを教えてくれたのが、中田英寿という中学生でした》 あるとき皆川は、試合に負けた選手たちに、罰走としてダッシュ50本を命じる。 だが中田は「走る理由が分からない。オレたちだけが走らなければならないのは納得でき
ワールドカップで日本とも対戦したベルギー代表の躍進を支え、 プレミアリーグファンのみならず世界中のサッカーファンに名を轟かせた マンチェスター・ユナイテッドFWロメル・ルカク。 強さと速さを兼ね備える圧倒的なフィジカルと両足でも頭でも決められる得点能力から、 現在では世界最高のストライカーの1人にも挙げられる彼本人が 6月に公開されたThe Players’ Tribuneで綴っていたのは想像を絶する過去だった。 当時6歳だった僕は、学校の昼休みに昼食をとるために家へ帰っていた。母さんは毎日同じメニュー、パンと牛乳を用意していた。子供の頃はそんなこと考えないだろうけど、僕はそうやってやりくりしていたことを知っていたんだ。 その日家に帰って台所へ向かった僕が目撃したのは、冷蔵庫の前で牛乳パックを持っている母さんだった。 いつものようだった。 でも、このとき母さんは何かをそこに混ぜていて、それ
5月14日、グランドプリンスホテル新高輪。Jリーグ25周年を記念したイベントの控室に、”神様”は現れた。ブラジル代表史上に残るスーパースターにして、元日本代表監督、ジーコさんその人だ。久
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く