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フーコーに関するirbsのブックマーク (6)

  • 「ていねいな暮らし」のなにが悪い? - 道徳的動物日記

    www.webchikuma.jp 大塚英志による上記の記事は、はてブでも先日から人気記事となっておりおおむね好意的に受け止められているようだが、わたしは読んでいてモヤモヤ……というよりも「うんざり」という感情を抱いてしまった。 なので、わたしが共感するブコメも次のようなものである。 「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4) クソみたいな状況を少しでも楽しいものにしようと工夫してる人たちを「体制に加担」とか「問題の隠蔽」とかいう語彙でしか語れない左翼の言葉こそ問題がある 2020/05/23 08:25 b.hatena.ne.jp 「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4) 戦時下が起源であり、一斉に右向け右させる権力がけしからんことはよくわかったが、今日の感染防止対策と戦時下の大政翼賛体制

    「ていねいな暮らし」のなにが悪い? - 道徳的動物日記
  • 自由と監視の両義性と○○性について - 快適な生活

    ※新作の原稿がマジ遅々として進まなくて,じゃあ来どんなこと書くつもりだったのかを,ブログに書くつもりでバーって書けば補助輪になって原稿やりやすくなるよなってなって,細かいことは無視して,さわりの部分だけバーって書いてみることにした. ------ 監視社会化がすすんでいると言われている. ------ Webサイトを開けば無数のスクリプトが我々のPCのデータにアクセスを試み,収集したデータは我々の行動履歴を監視し,消費者プロファイリングに役立てる.シヴァ・ヴァイディアナサンは,我々はもはやGoogleを使わずには生活できない状況下にあり,Googleに個人情報を明け渡さずには生きていけないことを確認した上で,でもGoogleのサービスは個人情報の提供の対価として得られる「取引」であるというようなありがちな見解に対して,個人情報やプライバシーは,商品のように切り離して取引できるようなもので

    自由と監視の両義性と○○性について - 快適な生活
  • フーコー「性の歴史」最終巻、ついに出版へ 死後34年

    【2月7日 AFP】今年で死後34年を迎えるフランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault)が著した「性の歴史(The History of Sexuality)」シリーズのうち、未発表だった第4巻「肉体の告白(Confessions of the Flesh)」が今月9日、ついに出版される。 未完のまま残されていた同著では、「同意」をめぐる繊細な問題についても論じられており、遺著管理者らはフーコーの考えを世に出す機が熟したと判断。仏出版社ガリマール(Gallimard)から出版される運びとなった。 編集者のフレデリック・グロ(Frederic Gros)氏は、セクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)を告発する「#MeToo(私も)」運動の高まりを受け「この独創的な大作の出版にふさわしい時が訪れた」と説明した。 フーコーが同書の執筆を開始したのは1980年代初頭。フーコ

    フーコー「性の歴史」最終巻、ついに出版へ 死後34年
  • 監視・規制・権力のビデオゲームズ 「ディシプリン*帝国の誕生」から「Watch dogs」まで6選 - GAME・SCOPE・SIZE

    誰が見張りを見張るのか? ビデオゲームはプログラムされている絶対的なメカニクスとルールの範囲内でプレイヤーは動くことの出来るジャンルだ。が、現在までにヴィジュアルのリアリズムの進歩や過去アーカイヴからのコンテクスト再構成、それからテーマの多様性が広まるにつれ、そのメカニクスとルールそのものを逆転させるようなデザインが生まれている。 中でも最近ではビデオゲームの根源であるメカニクスとルールを皮肉るかのようにあるテーマによるビデオゲームが頻発しているのを目にする。そう、監視・規制・管理そして権力をテーマとしたビデオゲームである。 それはソビエト連邦が健在であり、共産主義の可能性が追われていた時代をモデルとしたり、70年代のミシェル・フーコーの”監獄”から現代のデヴィット・ライアンの”監視社会”に至るまで考察が続く社会がリスクを軽減するために功利的に敷いた監視や管理のシステムがテーマだ。現代最大

    監視・規制・権力のビデオゲームズ 「ディシプリン*帝国の誕生」から「Watch dogs」まで6選 - GAME・SCOPE・SIZE
  • じぶんのなかに狂気をちゃんと飼っておく | AdverTimes.(アドタイ) by 宣伝会議

    高1の夏。N君が死んだ。ガスの元栓につないだホースをくわえて。彼は、僕たちのバンドのヴォーカルで、ロバート・プラントばりというわけにはさすがにいかなかったけれど、ポール・ロジャースばりでは明らかにあった。ものすごく人気があって、女のコたちにはもちろん、同じくらい男子からも。この両立は実は、なかなか難易度高い。でも、そうじゃないと、スター、ましてやカリスマにはなれない。ま、1970年代の渋谷区港区の一部地域だけのカリスマだけどね。N君は、かっこよかったのはもちろんだけど、なにしろアタマがよかった。ついでに学校の成績もかなりよかった。 高校生男子にとって、いちばん重要なこと、つまりモテるために必要なのは、ルックス、スポーツ、バンド。以上終わり。なのであって、つまり、モテの道はかなり限定されていた。想像するに、今もそうだろう。これが、大学生になると、将来性だの、家が金持ちだの、いいクルマ乗ってる

    じぶんのなかに狂気をちゃんと飼っておく | AdverTimes.(アドタイ) by 宣伝会議
  • 明治政府のフーコー的臣民観 | Kousyoublog

    ちょっと引用中心のメモ。 『明治の指導者たちは、人々を単なる支配の対象(object)ではなく、知識をもった自己規律的・自律的な主体(subject)として、つまり、フーコーのいう二重の意味での主体――「支配と依存」に服従させられた臣民(subject)であると同時に、「良識と自意識」によって自身のアイデンティティをもった存在としての主体(subject)――へとつくりかえてゆこうとしていたといえるのである。 この支配に関する新しい考え方こそが、高度に規律化された国民共同体と、統合的・全体包括的な国民文化へと一般民衆をとりこんでゆくことをねらった様々な政策を生み出したのであった。国家当局者の手によって正しい信仰のありかたが教示されるいっぽうで、地方の神社を破壊・統制したり、シャーマンや祈祷師やいわゆる淫祠などを迷信のたぐいとして規制し、民族宗教を攻撃するといった、啓蒙という名の一種の文化

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