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軍事に関するtohokuaikiのブックマーク (6)

  • まるで「ビックリ箱」、ウクライナで戦うロシア軍の戦車が抱える設計上の欠陥とは

    (CNN) 砲塔部分が吹き飛ばされたロシア軍の戦車の残骸は、同国のウクライナへの侵攻が計画通りに進んでいないことを示す最新の兆候だ。 ウクライナ侵攻の開始以降、これまで破壊されたロシア軍の戦車は数百台に上ると考えられている。ウォレス英国防相は25日、その数を推計で最大580台と発表した。 しかしロシアにとっての問題は単に台数のみにとどまらない。専門家らは戦場を写した画像から、ロシア軍の戦車がある不具合を抱えていることが分かると指摘する。それは西側諸国の軍隊が数十年間にわたり認識している欠陥で、「ビックリ箱」効果と呼ばれている。ロシア側もこの問題については把握していたはずだと、専門家らはみている。 問題は戦車の弾薬の搭載方法に関連する。最新の西側の戦車と異なり、ロシア軍の戦車は回転式砲塔の内部に多数の弾薬を搭載している。被弾の際の危険は極めて大きく、直撃ではない場合でさえもそこから連鎖反応が

    まるで「ビックリ箱」、ウクライナで戦うロシア軍の戦車が抱える設計上の欠陥とは
    tohokuaiki
    tohokuaiki 2022/04/30
    人命軽視は第二次世界大戦のソ連赤軍タンクデサントの頃から何も変わっていない…
  • サービス終了のお知らせ

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    tohokuaiki
    tohokuaiki 2019/03/24
    weybackにあるからgeocities無くなってもまた後で。
  • 中国機「前例ない接近」 東シナ海、空自機を正面から威嚇 政府関係者認める (産経新聞) - Yahoo!ニュース

    東シナ海の軍事的緊張が、海上のみならず上空でも高まっている。中国軍の戦闘機が今月17日など複数回にわたり、航空自衛隊機に対し、これまでにない攻撃動作を仕掛けたことが判明。政府関係者は29日、「あれだけの距離に接近したのは前例がない」と指摘した。インターネットのニュースサイトで同空域の危険な実態を明らかにした元空自航空支援集団司令官、織田(おりた)邦男元空将は「現場の緊張感は計り知れなかったはずだ」と警鐘を鳴らす。(石鍋圭) ◆暗黙のライン越えた 6月中旬、空自機が那覇空港から緊急発進(スクランブル)した。尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の公海上空に中国機が接近したためだ。 空自と中国空軍の間には「北緯××度」という暗黙の了解がある。従来、中国機はそのラインまで来るときびすを返すように北上し、空自機と遭遇することはなかった。しかし今回、中国機はその一線を初めて越えてきた。 政府関係者は「

    中国機「前例ない接近」 東シナ海、空自機を正面から威嚇 政府関係者認める (産経新聞) - Yahoo!ニュース
  • ある軍事評論家の死 - すとう信彦 & his band

    軍事評論家の江畑謙介氏が死去した。同じ専門分野だからもちろん良く知っている。1990年の湾岸戦争というものは、自国に関する限り、これまで戦争なんて死語だと思っていた日に大きな衝撃を与えた。日には当の意味で、軍事専門家などはいない、また出てこないだろう。そのなかで、一応、擬似専門家としての役割を果たしたのが江畑さんだった。軍事情報誌のジェーン年鑑のエージェントというような役割で、日には入ってこない情報をジェーン側から手に入れて、専門家としての評価を獲得した。それでも、でたらめな評論家に比べれば、はるかに中立的で高いレベルの情報提供だった。軍事オタクという言葉もこのころから出てきたが、江畑さんはある意味、そのハシリのようなものだった。まったく紛争地や実際の戦場に足を運ぶこともなく、兵器という切り口だけで戦争を論じる、日にしか生まれない特異な軍事評論家だった。 それでもお互いに専門家と

    ある軍事評論家の死 - すとう信彦 & his band
  • 信じられないが、本当だ

    ☆信じられないが、当だ ここは2ちゃんねる、軍事板の古今東西軍事関係で、一瞬疑うような真実の話題を披露するスレッドとして人気の、 「☆信じられないが、当だ」のまとめサイトです

  • 小沢治三郎 - Wikipedia

    小沢 治三郎(小澤 治三郎、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校37期生。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 生涯[編集] 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24 で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。小沢はこの手紙を終生大切に保管し、またその言葉を座右の銘とした[1]。小沢は東京でも喧嘩沙汰を起こし、下駄で踏みつけ相手は降

    小沢治三郎 - Wikipedia
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