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速水健朗に関するurashimasanのブックマーク (4)

  • 浜崎歌詞に「ケータイ」が登場しないという事実を我々は決して忘れてはならない - kenzee観光第二レジャービル

    kenzee「浜崎あゆみ「Rock'n Roll Circus」vs「to LOVE」問題に移る前に、前から思っていた素朴な疑問を呈してみたい。速水さんが再三、の中で述べているように浜崎の音楽とケータイ文化は密接にかかわっており、二人三脚でこのゼロ年代を駆け抜けた。そのワリには浜崎の歌詞にはケータイが登場しないのだ。たとえば恋人から着信があってうれしいとか一日たってもメールが返ってこない寂しい、とかそういう描写は浜崎ソングには一切ない」 司会者「「何回かけても繋がんないんだけどー」「ゴメーン地下街歩いてたんで電波入んなかったんじゃないかニャー」「最近の地下街余裕で電波入るわヴォケ!」とかそういうリリックがあってもよさそうですが浜崎にはそういうケータイ的なコミュニケーションがまったく描かれてこなかった。これはどうしてだろう?」 kenzee「たとえば浜崎は2001年ごろ、ツーカーのイメージ

    浜崎歌詞に「ケータイ」が登場しないという事実を我々は決して忘れてはならない - kenzee観光第二レジャービル
  • 僕が取材をしなかった理由 - 【B面】犬にかぶらせろ!

    小飼弾氏には、これまで自著をブログで取り上げてもらっていて、 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50741767.html http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html そのたび、 資料をまとめただけじゃない? 書には、取材はない。 いわゆる現場の一次資料 と、指摘され続けてきたのだけど、『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』に至っては、ついに取材がほぼゼロになった。 郊外書店やショッピングモールを巡ったが、あれは取材と言うよりも日常生活や趣味の領域だ。 弾氏の書評に反発したわけではないのだが、途中で完全に取材を辞めた。 理由は3つ。 すでに取材主体で書かれたケータイ小説論が出ていたから ケータイ小説作家がほぼ取材に応じないから 取材からわかることが少ないこ

    僕が取材をしなかった理由 - 【B面】犬にかぶらせろ!
  • 2008-07-07 - ぼんやり上手

    ケータイ小説文化的背景を探るという変化球ケータイ小説。レディース雑誌「ティーンズロード」や浜崎あゆみ、郊外のショッピングモール文化といった一見脈絡のないものを結びケータイ小説を読み解く大胆な見取り図を提示しています。 今までまったく小説や物語に触れたことのないような人が書いたケータイ小説というのは、どうやって生まれて、どういう風に受け取られてるのか。物語を語りたい/聞きたいというのは、人間の自然な欲求だけれど、ケータイ小説はそれを既存の小説とはまったく違ったコードでやっている。それはどんなコードなのか。こういったことがこのでぐいぐい解き明かされていくのがとてもスリリングでした。 読んでいて一番驚いたのが、189ページのケータイ小説の精神分析的解釈。 要約すると、「ケータイ小説というのは、自分を抑圧するDV彼氏を、不治の病や不慮の死という形で殺す物語」ということですが、この解釈にはナ

    2008-07-07 - ぼんやり上手
    urashimasan
    urashimasan 2008/07/08
    "189ページのケータイ小説の精神分析的解釈"
  • 「ケータイ小説的。”再ヤンキー化”時代の少女たち」/速水健朗 - 空中キャンプ

    速水健朗新刊(原書房)。ちょうおもしろい! 社会学的な見立てもばっちり決まって、綿密なリサーチと共に展開される論旨も説得力じゅうぶん。ケータイ小説を論じながら、同時に郊外論であり、携帯電話の普及にともなうあたらしいかたちのコミュニケーション論でもあり、九〇年代から〇〇年代にかけての文化論でもある。こうしたたくさんのキーワードが、速水の提示するひとつの枠組みの中にぴったりと収まる気持ちよさが味わえる好著でした。これ、すごくいいですよ。「なにかを上手に説明されるとすごく気持ちがいい」というわたしの性格にぴったりの一冊、「説明されたがり」の欲求を満たしてくれるテキストである。 わたしは東京に住んでいて、ふだんは新宿の紀伊国屋か、渋谷のブックファースト(移転してからはいまひとつ好きではない)、もしくはパルコ地下のリブロでを買う。映画を見るのも、同じく新宿か渋谷。車は持っていないから、買いものをす

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