何が目的で話が進められてんのか分からん。 っていうかジブリの9/10作品くらい何やってるか理解できてない(ラピュタ、魔女宅あたりは分かる) 特に紅の豚が訳が分からない。 小さい子が見て分かる内容なの? 自分の理解力が乏しいの? 誰か説明してほしい。
Kiki's Delivery Service/1989/JP 『魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者、島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。その本のなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般に
以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。 そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。 仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根本的な資質や姿勢が欠如していたことであり、
「村上春樹のファン層と、宮崎駿のファン層って重なる気がするんだよな」 と、いっていたのは、知人だったかだれだったか。前者のファンではあるけれど、後者はどちらかというとアンチに属する私は、思わず「むむむ」と反論したくなったものです。 しかし、先日『物語論で読む村上春樹と宮崎駿——構造しかない日本』という本を読んだことがきっかけで、「やっぱり村上春樹と宮崎駿って似てるのかもしれない」と思い直した私は、この超有名な2人の作者の物語について、考えてみることにしました。 物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21) 作者: 大塚英志出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)発売日: 2009/07/10メディア: 新書購入: 12人 クリック: 69回この商品を含むブログ (43件) を見る 村上春樹と宮崎駿の物語は、マニュアル化されている!? 「ホッ
件の記事は以下を参照されたし Amazon.co.jp: 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の ドリーさんのレビュー このレビューがおもしろいことは認める。独特の切り口に歯に衣着せぬ物言いは、確かにとびっきり面白い。でも、ただ単に面白いだけで、作品の本質は何にも言い当てられていないと思う。 ネタにマジレスするなって怒られるかもかもしれないけど、好きな小説をここまでコケにされて、「これこそが正当の評価だ」みたいなブコメをたくさん読むと、何か一言言いたくなって書いた。 作品で元気付けられて何がいけないのだろうか?わざわざ嫌いな作家の作品を読んで、長々とレビューを書いたわけだから、 ①俺は作品を正当な評価をすることができる ②世間では流行っているが、面白くない小説が流行っているのは許せない ③俺の読み方によると、これはつまらない作品だ ④その誤った評価を俺が正してやる! このような思考の元
われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった) http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220 それにしても、と僕は思う。 日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。 (「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀) 東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきこと
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RuneFest, a convention run by the creators of RuneScape, is supposed to be an annual celebration of the fantasy MMO that came out in 2001 and has stayed improbably relevant in 2018 due to updates, iterations, and an active streaming community. This year, some attendees raised concerns about one streamer in particular,…
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「コクリコ坂から」を肯定的評価とともにみた。ところが世のレビューを見ると酷評の嵐。この現象は「アリエッティー」の時と同じだ。なぜ彼らがここまで酷評をするのか。率直に言って理解しにくいが、想像はできる。彼らの期待しているものとこれら最近2作品のベクトルが異なること。一定の人生経験と思慮を前提とした作品となっていることがあるのだろう。 世界そのものの在り方に対するメッセージは入っていない(というか、人の生き方の根本にかかわるメッセージが入っていることからすると世界そのものの在り方を含んでいるのだが、彼らには理解できないのだろう)。主人公が世界を救ったりはしない(というか、これら2作品のテーマはこの世界に生きる我々の問題を含んでいるのだが、彼らには理解できないのだろう)。ファンタジーはない(というか、こんな素敵な設定はファンタジーそのものなのだが、彼らには感じ取れないのだろう)。少し加えるとする
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110527/1306510563 リンク先では、『魔法少女まどか☆マギカ』のさやかと杏子、特にその最期について、『認知障害』『うつ病』『メランコリー親和型性格』といった精神医学の用語を用いて解説を行っている。その概要は、“さやかと杏子は『認知障害』の状態に陥っていた”、という主張だ。つまり、これらの精神医学の用語で、さやか・杏子の“心理的背景”の中核は説明できる、ということらしい。はてなブックマーク上では賛辞の声が多く集まっているようだが、私自身の知識と照らし合わせて、どうもしっくり来ないし納得できない。そこで、このエントリで反駁を試みることとする。 1.さやか・杏子はどこまで“正常な思考が出来ない状態”に陥っていたか? まず、“認知障害”という、かなり曖昧な精神医学用語に、さやか・杏子が該当していたか?について考えよう
「〈企画〉 アニメ評 魔法少女まどか☆マギカ」(京都大学新聞社) もとのアニメは見ていないが、強く触発された。 当事者性とは、伝わらないものを抱えること。 受け入れられたいという願望を満たすために自分で格闘しなければならない、そういう状況に追い込まれること。 そして、《責めあり》の存在であること*1。 たいていのキャラクター論や物語構造の分析は、論じ手じしんの当事者性を回避する装置になる。 そもそも思考は、ある仕方で批判可能性を引き受けつつ、それとは別の階層の批判可能性を封じる*2。 お約束――≪この話をしているかぎり、論じ手は自分の関係性それ自体について当事者的自己解体を迫られることはない(分析それ自体のレベルで面白くないと責められることはあっても、思索事業の前提は批判されない)≫ 当事者とは、倫理性を帯びることなのに、 現状の当事者概念は*3、倫理性を免除する装置でしかない。 周囲は《
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