瀬川丑松、テキサスへ行かず ―『破戒』のキーワード「隠す」と「引き受ける」について― (上) 『こぺる』1996年7月号 灘本昌久 『破戒』との不幸な出会い 思えば不幸な出会いだった。 私が高校一、二年生のころ(一九七二、三年)、部落問題を勉強し始めた早い時期に読んだのが、『高校生の部落問題』である。そこには、野間宏による評論「『破戒』について」が掲載されていた。野間氏は、『破戒』を次のように極めて否定的に評価している。「丑松は自分の教える生徒たちの前に土下座して自分の出身を告白し、その後、新天地を求めてテキサスに渡るというのだ。藤村が部落民の問題を人間の問題として、十分考えつくすことができなかったことをあらわにしているのである。『破戒』というのはこのようなことなのだろうか。破戒とは父のさずけた戒の意味を根底からくつがえす心をもって、自らその戒を破り去り、父にそのような封建的な戒をもたらせ