タグ

宗教と歴史と戦争に関するcinefukのブックマーク (6)

  • 戦没者慰霊碑、滞る管理 ひび・倒壊の恐れ780基 - 日本経済新聞

    全国に建てられた戦没者慰霊碑の管理が行き届かなくなっている。厚生労働省が昨年集計した調査では、ひびや倒壊の恐れがある碑が780基に上った。遺族らの高齢化が進み、維持・管理の担い手が不足している。専門家は「戦争記憶の伝承のためにも公的支援が必要」と指摘する。「かなり劣化していて、大地震でも来たらどうなるか分からない」。神奈川県伊勢原市で地元遺族会の支部長を務める越水澄夫さん(79)は、市内の神社

    戦没者慰霊碑、滞る管理 ひび・倒壊の恐れ780基 - 日本経済新聞
    cinefuk
    cinefuk 2020/08/27
    日露戦争の慰霊碑だと100年前。劣化は免れないが、言うなれば墓石のようなものでもあり『広島県三次市の遺族会は「碑の管理を市にやってほしい」と求めたが「民間で建立した碑の維持管理は民間が行うのが基本」と』
  • 亀井静香氏「西郷隆盛や白虎隊など賊軍を靖国に合祀せよ」

    終戦の日に考えたい靖国参拝の是非 72回目の終戦記念日を迎えた。安倍首相は靖国神社への参拝を見送り、私費で玉串料を奉納した。そもそも首相が靖国参拝したかどうかを速報ニュースで報じることに何の意味があるのか。まったくもって不思議だが、これもメディアの悪しき慣例であろう。というわけで、靖国参拝の是非を終戦の日に考えてみたい。

    亀井静香氏「西郷隆盛や白虎隊など賊軍を靖国に合祀せよ」
    cinefuk
    cinefuk 2020/06/25
    『だが残念ながら、現在の靖國神社は「長州神社」になっている。大鳥居をくぐった先に建っている長州藩の大村益次郎像が、新政府に反抗した幕臣軍・彰義隊が立てこもった上野の山を睨みつけていることが、その象徴』
  • 靖国神社に思う

    cinefuk
    cinefuk 2020/06/25
    『国家宗教・軍隊宗教としては、死者の霊魂を慰めるよりは、むしろまだ生きている軍人兵士・国民を励ますお祭りということが重要なわけで、 #英霊 が増え続けるほど、生きている国民に対して"天皇に忠義を尽くせ"と』
  • http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-92.htm

    cinefuk
    cinefuk 2020/06/25
    『戦後の"転向者"の筆頭であり先導役を務めたのは「人間宣言」をされた昭和天皇であった。そして断固としてこれを許さなかったのが自死した三島由紀夫である。三島は言わば戦後の「非転向者」であったのだ。』
  • 『日本の戦争と宗教 1899–1945』著:小川原正道「戦時下の宗教」が語りかけるもの()

    筆者は講談社選書メチエから、『日戦争と宗教 1899–1945』を上梓した。2010年に同シリーズから出した『近代日戦争と宗教』の続編であり、前回が戊辰戦争から日露戦争までを扱ったため、今回は第一次世界大戦から太平洋戦争までを対象としている。 この間、戦争に際して日の政府や軍は宗教をどのように取り扱い、宗教界―仏教界、キリスト教界、神道界、新宗教界―は、戦争にどう対峙していったのか。この両書をもって近代の戦争と宗教との関わりを素描することにつとめた。 なぜ、戦争と宗教なのか。筆者がこうしたテーマに関心をもったのは、ある資料との出会いにあった。2003年、筆者は「大教院の研究」(のち、慶應義塾大学出版会より刊行)と題する博士論文で博士号を取得した。大教院とは、明治初期、神道を国教化しようとする明治政府の政策に応じて、神道的教説を国民に布教していく教師を育成する機関であった。 こうし

    『日本の戦争と宗教 1899–1945』著:小川原正道「戦時下の宗教」が語りかけるもの()
    cinefuk
    cinefuk 2019/09/11
    "戦局が悪化し、各地で玉砕が展開されはじめ、本土決戦が現実味を帯びてくると、浄土真宗は一向一揆の精神を呼び覚まし、いまこそ国家のために「殉教」すべきだと門徒に呼びかけた。本願寺派の法主は街頭演説を"
  • ご存知ですか? 2月17日は「死のう団」事件の日です (文春オンライン) - Yahoo!ニュース

    80年前のきょう、1937年2月17日の正午すぎから午後2時すぎまでのあいだに、東京都心の国会議事堂前、宮城(皇居)前広場、警視庁玄関、元外務次官官邸前、内務省の各所で、羽織袴姿の5人の青年が「死のう!」と叫びながら割腹自殺をはかった。彼らは「死のう団」と呼ばれる団体のメンバーで、いずれも未遂に終わる。 死のう団の正式名称は「日蓮会殉教衆青年党」。その母体となる「日蓮会」は1928年に江川桜堂という青年により結成され、既成宗教の退廃を厳しく批判、最盛期には約500人の信者がいたという。 1933年夏には、江川ら死のう団の28名が日全国を説法してまわる旅「殉教千里行」に出る。「死のう」とは、法華経でいう不惜身命(仏道修行のため身体と命を惜しまないこと)の意を簡潔に伝える彼らの合言葉だった。だが、旅の途中、一行を怪しんだ住民の通報で逮捕される。このとき反体制運動や思想犯を取り締まる特別高

    cinefuk
    cinefuk 2017/02/17
    "1937年2月17日、国会議事堂前、皇居前広場、警視庁玄関、元外務次官官邸前、内務省の各所で、羽織袴姿の5人の青年が「死のう!」と叫びながら割腹自殺(未遂)を図った。 正式名称「日蓮会殉教衆青年党」母体「日蓮会」"
  • 1