全国に建てられた戦没者慰霊碑の管理が行き届かなくなっている。厚生労働省が昨年集計した調査では、ひびや倒壊の恐れがある碑が780基に上った。遺族らの高齢化が進み、維持・管理の担い手が不足している。専門家は「戦争記憶の伝承のためにも公的支援が必要」と指摘する。「かなり劣化していて、大地震でも来たらどうなるか分からない」。神奈川県伊勢原市で地元遺族会の支部長を務める越水澄夫さん(79)は、市内の神社
全国に建てられた戦没者慰霊碑の管理が行き届かなくなっている。厚生労働省が昨年集計した調査では、ひびや倒壊の恐れがある碑が780基に上った。遺族らの高齢化が進み、維持・管理の担い手が不足している。専門家は「戦争記憶の伝承のためにも公的支援が必要」と指摘する。「かなり劣化していて、大地震でも来たらどうなるか分からない」。神奈川県伊勢原市で地元遺族会の支部長を務める越水澄夫さん(79)は、市内の神社
筆者は講談社選書メチエから、『日本の戦争と宗教 1899–1945』を上梓した。2010年に同シリーズから出した『近代日本の戦争と宗教』の続編であり、前回が戊辰戦争から日露戦争までを扱ったため、今回は第一次世界大戦から太平洋戦争までを対象としている。 この間、戦争に際して日本の政府や軍は宗教をどのように取り扱い、宗教界―仏教界、キリスト教界、神道界、新宗教界―は、戦争にどう対峙していったのか。この両書をもって近代の戦争と宗教との関わりを素描することにつとめた。 なぜ、戦争と宗教なのか。筆者がこうしたテーマに関心をもったのは、ある資料との出会いにあった。2003年、筆者は「大教院の研究」(のち、慶應義塾大学出版会より刊行)と題する博士論文で博士号を取得した。大教院とは、明治初期、神道を国教化しようとする明治政府の政策に応じて、神道的教説を国民に布教していく教師を育成する機関であった。 こうし
80年前のきょう、1937年2月17日の正午すぎから午後2時すぎまでのあいだに、東京都心の国会議事堂前、宮城(皇居)前広場、警視庁玄関、元外務次官官邸前、内務省の各所で、羽織袴姿の5人の青年が「死のう!」と叫びながら割腹自殺をはかった。彼らは「死のう団」と呼ばれる団体のメンバーで、いずれも未遂に終わる。 死のう団の正式名称は「日蓮会殉教衆青年党」。その母体となる「日蓮会」は1928年に江川桜堂という青年により結成され、既成宗教の退廃を厳しく批判、最盛期には約500人の信者がいたという。 1933年夏には、江川ら死のう団の28名が日本全国を説法してまわる旅「殉教千里行」に出る。「死のう」とは、法華経でいう不惜身命(仏道修行のため身体と命を惜しまないこと)の意を簡潔に伝える彼らの合言葉だった。だが、旅の途中、一行を怪しんだ住民の通報で逮捕される。このとき反体制運動や思想犯を取り締まる特別高
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