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日本の障害者運動史を研究しはじめて約20年になる。振り返ってみれば、この間、ずっと「国家や社会に抗うマイノリティ」を追いかけてきた。 ただし、私が追い続けてきたのは「巨大権力に立ち向かった果敢な英雄」というわけではない。正確に表現するのが難しいのだが、強いて言えば「自分自身の痛みと向き合い続けていたら、いつの間にか国家や社会に歯向かわざるを得なくなった人生を、結果として歩んでしまった人物」ということになるだろうか。 特にこの4~5年は、約半世紀前に起きた事件のことを考え続けていた。昨年は文字通り「寝ても覚めても」といった状態だった。その事件は、私に根源的な問いを突きつけてくる。個人は国家に抗うことができるのか。なぜ個人が国家と対峙せざるを得ない状況が生まれるのか。個人が国家に歯向かうことにどんな意味があるのか。こうした問いについて、取り憑かれたように考え続けていた。 『モナ・リザ展』初日に
最近また小人プロレスの話がよく出てくるので、ここでもまとめておきたいと思います。 よくある都市伝説 かつて低身長症の選手だけで組織された小人プロレス団体があり、テレビでも放送され人気を博していた。しかし人権団体が「身体障害者を見世物にするとは何事か」とクレームをつけ、テレビ放送は禁止となり、興行も取り締まられて団体は解散、レスラーたちは全員失業し困窮した。元レスラーは「人権団体のやつらは、俺たちの仕事を奪ったが替わりの仕事はくれなかった」と涙ながらに訴えたが、人権団体は彼らを無視して、小人プロレスを潰した実績を誇示しつつ、次の獲物(※主に女性の性的魅力を前面に押し出したコンテンツがここに入る)を狙っている。 実際はどうか 小人プロレスは全日本女子プロレスのいち部門として前座で開催され、メディアで取り上げられることは少ないが試合はずっと行われていた。全日本女子プロレスの倒産により試合の機会は
ネトウヨのデマをただす #ネトウヨデマ対抗テンプレにもどる 「小人プロレス(ミゼットプロレス)は人権団体がつぶした」は定期的にネットにでてきます。たとえば、画像のツイートが3600RTになるくらい。 日本のミゼットプロレスの歴史はwikiにまとまっていますが、ほかの資料や個人的な記憶を使って補足します。 ja.wikipedia.org (追記 2021/3/25 もっと詳しい記事ができました。こちらを参照してください。 washburn1975.hatenablog.com 日本のミゼットプロレスの始まりは1960年代初頭 ミゼットプロレスは、男子プロレス、女子プロレスとは異なるルートで日本に入ってきて、興行に加わりました。 1960年(昭和35年)08月26日に公開された「小人のプロレス」のニュース映画。 www.chunichieigasha.co.jp www.youtube.co
范 文雀(はん ぶんじゃく、1948年〈昭和23年〉4月15日 - 2002年〈平成14年〉11月5日)[1][2][3]は、日本の女優。愛称は文ちゃん[4]。 1970年(昭和45年)に放送されたテレビドラマ『サインはV』をはじめ、多くのテレビドラマや映画に出演した。 来歴 東京都中野区生まれ[1]、広島県広島市育ち[5][6][7][8]。一男一女の長女[5]。国籍は台湾であったが[6]、両親も日本育ちであり、中国語はできなかった。 父親は台湾人の音楽家であったが、范が5歳の時に帰国してしまい、残された文雀は母、兄とともに広島市の祖父母宅へ身を寄せることとなった。祖父母は広島駅前(現在、福屋広島駅前店がある一角)で「胡蝶園」という中華料理店を経営していた。この店は和食以外は何でも提供しており、深夜まで営業していた。また、この祖父は実の祖父ではなく、中国の家での使用人が祖母の愛人として同
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