ガラスの内側をテープで留めると、部屋に飛び込む破片を減らせる。通行人への被害を減らすには、できれば外側にも。ウクライナの安価な窓や複層ガラスには強化ガラスが使われていないので、割れると大きな破片が飛び散って危険――。ウクライナ西部の都市リビウを拠点に建築設計やインテリアデザインを手掛けるreplus bureau(リプラスビューロー、以下リプラス)はロシアのウクライナ侵攻以降、インスタグラムにこのような投稿を載せるようになった。 2022年2月24日以前の投稿は文章が少なめで、古い工場の趣を生かしながらリノベーションしたオフィスや、若者が好みそうな内装デザインのクラブ、モダンなインテリアが目を引く住宅などの写真が見る者を楽しませていたが、今は破壊された建物の写真に、こんなメッセージが添えられている。「出入り口が1つしかない自宅の地下室は一種のわなです! 被害が小さくても閉じ込められてしまう
ウクライナ西部リビウでボランティアたちが作った対戦車障害物(2022年3月3日撮影)。(c)FADEL SENNA / AFP 【3月18日 AFP】ウクライナ西部リビウ(Lviv)の民家の庭で、軍を支援するための「チェコのハリネズミ」と呼ばれる対戦車障害物作りが行われている。 家具職人のタラス・フリプチャク(Tarass Filipchak)さんは、ロシアによる侵攻初日に兄弟から「よく聞くんだ。対戦車障害物が必要になる」と言われたと振り返る。 家を建設中だったフリプチャクさんは、建材が第2次世界大戦(World War II)中に複数の国で使われていた「チェコのハリネズミ」を作るのに適していることを知った。 SNSで呼びかけると、友人や知人だけではなく知らない人までも必要なものを持ってきてくれたり、手を貸してくれたりしたという。 「こんなことをするとは思ってもいなかった。わたしたちは、平
正式には「三菱重工業長崎研究所船型試験場」といい、全長303m、幅16.5mという細長い形は船の模型を使って性能を調べる為の試験水槽があるがゆえです。 全体的に戦前の姿をとどめる建物の中で、現存する最大のものなのですが、地味な存在のためかあまり知られていません・・・。 爆心から1.6kmと聞いてもピンときませんが、下の図を見るといかに原爆の破壊力がすさまじかったかがわかるような気がします。これは原爆投下から一ヶ月後にアメリカ軍が上空から撮影したものです。 あたり一面、形のあるものは吹き飛ばされ、熱線で焼き尽くされ、何もなくなっているのがわかります。中央が多くの死傷者を出した三菱長崎兵器製作所(現・長崎大学文教キャンパス)。右上に細長く枠だけが見えるのが船型試験場です。 被爆時、屋根は爆風により吹き飛ばされ、建物はくの字にまがりました。 へし曲がった鉄骨だけが残る兵器製作所のまわりには何も見
小倉の街中で遺構散策。 魚町銀天街2丁目からちょっと横に出て、みかげ通りにある小倉ワシントンビル(1階にドラッグイレブンが入ってるとこね)、ここには昔、かねやす百貨店ってのがあったそうな。外観は新しそうに見えるビルですが、建物自体は昔のもの。 なんとこのビルに戦争遺構があるとな!?ホントですか?……ホントです! 戦時中、小倉市街地で最も高さのある建物だったこの百貨店の屋上には、防空監視哨が設置されました。戦火を免れ、終戦後の魚町の大火災を耐えるも、その火災の影響により業績が悪化、廃業を余儀なくされ、商業ビルとして屋号が変わりつつもその姿を保っています。現役のビルの屋上に監視哨が残っているのは非常に珍しいそうです。 ビルを側面から見るとエレガントなアールのある壁。ほんの数年前までは外壁がボロボロになってたような気がするので塗り替えたのでしょうね。 【※普段は立ち入れないので事前にビルの管理者
全国に建てられた戦没者慰霊碑の管理が行き届かなくなっている。厚生労働省が昨年集計した調査では、ひびや倒壊の恐れがある碑が780基に上った。遺族らの高齢化が進み、維持・管理の担い手が不足している。専門家は「戦争記憶の伝承のためにも公的支援が必要」と指摘する。「かなり劣化していて、大地震でも来たらどうなるか分からない」。神奈川県伊勢原市で地元遺族会の支部長を務める越水澄夫さん(79)は、市内の神社
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戦後75年の節目となることし、大本営陸軍部が置かれていた東京・市ヶ谷にある地下ごうを防衛省が一般に公開することになりました。 この地下ごうは戦後、限定的に公開されていましたが、内部の老朽化とともに耐震性が問題となり、非公開となっていました。 その後、耐震工事は完了し、防衛省がこの地下ごうを一般に公開することになりました。 地下ごうは厚さおよそ1メートルのコンクリートで覆われ、地下およそ15メートルの位置にあります。3本のトンネルで構成されて、広さは1300平方メートル余り、陸軍大臣の執務室やトイレなどの跡があり、およそ200人が生活できたという記録が防衛省に残されています。 外部から見つからないよう、通気口の地上部分は、石灯籠とつながっています。 防衛省は当初、来月1日に一般公開する予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、状況を見極めながら改めて公開日を決めることにしています。
おほやまとはかみのくになり。主に西日本方面を中心に大東亜戦期の軍事遺構(国防、軍事関連施設など所謂「戦争遺跡」)、英霊顕頌施設を紹介 熊本市大江には歩兵第十三聯隊の兵営がありました。 ▲熊本学園大学内に遺る「酒保」 熊本城周辺の陸軍部隊配置> ※緑文字が当記事の紹介施設 ①野砲兵第六聯隊 ②騎兵第六聯隊 ③歩兵第十三聯隊 ④工兵第六聯隊 ⑤渡鹿(とろく)陸軍練兵場 名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。 <遺構について> ③歩兵第十三聯隊 明治8(1875)年4月15日、熊本鎭臺歩兵第二十五大隊を基幹に、3月10日に解隊された歩兵第十一・十九大隊の将校、下士官を加え歩兵第十三聯隊が編成され、熊本城二之丸の兵営に入ります。 明治9(1876)年4月15日、第三大隊が編成され熊本城南の御花畑・旧細川藩邸に分屯(後、二之丸兵営に転営)します。 大正14(1925)年5月29日
監物台樹木園の森林鉄道機関車を見に行ったときのこと。駐車場から歩いていく途中に変わった建物を見つけました。現在は熊本市役所古京町別館として使われていますが、その古くていかにも“堅そう”な雰囲気からして以前は違う用途で使われていたことが予想できます。
JR小倉駅から車を北西に20分ほど走らせゲートをくぐると赤茶けた建物が並ぶ広大な工場の敷地に入る。その中にネコの頭部が3つ並んだような、ひときわ特徴的な“顔”の建物がある。戦時中の1941年築。当時の表記は日本製鉄株式会社八幡製鉄所戸畑ロール旋削工場。現在は新日鉄住金の子会社の日鉄住金ロールズが管轄、ロール加工工場と呼ばれている。 「工場という制約が多い施設ですが、機能性を追求しながら村野独自の工夫もなされています」 笠原さんは建物の魅力を語る。そのポイントは屋根。 「屋根の構造体をハサミ形に交差させ、その端に斜めの開口部を入れています。部材の数を減らすためでしょう。また開口部を斜めに入れたのも、垂直にする場合より多くの光を内部に取り入れることができるからだと考えられます」 ネコ耳のように屋根の一部が付き出すデザインは合理性にのっとったものだと笠原さんは考える。3つの棟は中央が最も高く、南
シリアの戦争をめぐって、連日、正気の沙汰とは思えないようなニュースや凄惨な写真があふれ出ている。そして、シリアの数多くの古代遺跡や建築物、世界遺産を破壊する砲撃や爆撃を目の当たりにしている。シリアの都市の画像をひとまとめにし、自分自身に加え、かつてこれらの美しい都市に住んでいた人や訪れたことのある人、これからきっと訪ねたいと思っている人に、私たちが平穏に暮らしていた頃のシリアを思い出してほしいと私は思った。そして、文化に富んだシリアの歴史の中にあるすばらしい記録や体験を共有したいと思った。 シリアは、古代の真珠として、また文明発祥の地(紀元前9000年)として知られる国で、青銅器時代(紀元前3000~2000年)があった。文字が発明され、古代都市ウガリットの繁栄によって最古の手書き文字と人類初の楽譜が誕生した国だ。
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