タグ

ビジネスとインタビューと企業に関するcinefukのブックマーク (4)

  • 18禁は扱わない! アニメイトのテーマは「親が安心できる店」だった - 経済・ビジネス - ニュース

    1990年にアニメイト入社。現在、47都道府県に116店舗を展開するアニメイトを率いる。阪下實社長アニメ市場が年々成長を遂げている中、つい先月、創業32年にして全国出店を果たしたアニメイト。 セブン-イレブンやスターバックスといった超有名チェーンでさえ成し遂げていない、この偉業は大きな話題となった。 そこで、週プレでは滅多に取材を受けたことがないという代表取締役社長の阪下實氏にインタビューを敢行! 前編(http://wpb.shueisha.co.jp/2015/05/12/47772/)では、この全国出店に「まだまだやなぁ」という音を語った阪下社長だが、今回は店作りへのこだわりを明かした。 ■リアル店舗としてお客さんをつなげたい ―32年の歴史の中で、アニメイトに来るファン層は変わりましたか? 阪下 アニメは世代を超えたな、と思いますねぇ。80年代に『ジャンプ』原作のアニメを見て育っ

    18禁は扱わない! アニメイトのテーマは「親が安心できる店」だった - 経済・ビジネス - ニュース
    cinefuk
    cinefuk 2023/06/06
    ポルノ依存の"お客様"は別の専門店に行ってください>"でも、アニメイトは「親が安心できる店」がテーマ。中学生や小学生をひとりで行かせても心配されない、“安心安全”な店にしようということを心がけています"
  • 「売り切れんくらい積み上げろ」 常識外の在庫量で躍進

    機械工具卸売業のトラスコ中山は、「在庫は悪」という考えの真逆を行く在庫戦略で成長を遂げている。約3000社の製品を取りそろえて即納するという他社にはないサービスが多くの顧客を惹きつける。「在庫は成長のエネルギー」と力説する代表取締役社長の中山哲也氏に話を聞いた。(聞き手は岩野 恵、高市清治、中山 力) 生産現場で必要な商品をすぐに届けられるよう、幅広い商品をとにかく置いて、置いて、置きまくろう。そういう方針で会社を経営しています。現在、在庫として持つ商品は約50万アイテムあります。50万アイテムというのは半端ではない数字だと自負しています。商品を買う側からすると、トラスコとつながるだけで、50万アイテムの商品を即納してもらえる。こんなに便利な会社は他にありません。 我々の在庫戦略は、マーケティング用語の「ロングテール」に該当すると言われることがあります。直訳すると長いしっぽですね。例えば、

    「売り切れんくらい積み上げろ」 常識外の在庫量で躍進
    cinefuk
    cinefuk 2022/02/21
    『現在、在庫として持つ商品は約50万アイテムあります。商品を買う側からすると、トラスコとつながるだけで、50万アイテムの商品を即納してもらえる。こんなに便利な会社は他にありません。』
  • ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」 | 文春アーカイブス | 文春オンライン

    さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。 もっとも、新しい門出に、いきなり洪水のような報道が襲ってきました。 退社する前日に、『日経済新聞』が私のことを大々的に報じたのです。 いわく「ゲームボーイを開発した功労者が退社した。鳴り物入りで宣伝した『バーチャルボーイ』失敗の責任をとったものだ」 いわく「『NINTENDO64』が予想以上に売れていないため、任天堂の利益が大幅に減っている」 二つの「事実」を並べて読むと、読者には任天堂が大変な苦境に陥り、まるで内紛でも起こっているかのように思えるでしょう。 実際には、私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。 前々から、55歳になったら、独立したいと考えていま

    ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」 | 文春アーカイブス | 文春オンライン
    cinefuk
    cinefuk 2018/05/07
    読み応えあるインタビュー。「最近の任天堂では、新しい商品は年商1000億以上売れる可能性のないものは企画が通らない」 #枯れた技術の水平思考
  • 闘いつづける経営者たち|J-Net21[中小企業ビジネス支援サイト]

    2006年10月2日、東京・六木ヒルズアリーナ。2001年の東京モーターショーの出品から足かけ5年-850日目。光岡自動車の「大蛇(オロチ)」の発表会が開催、その強烈なフォルムのスーパーカーが鮮烈なデビューを飾った。 この席上、挨拶に立った光岡進は「創業以来、この日が来るのを夢見てきた。オリジナルカーづくり一筋に取り組んできた当社と私にとって、今日は日発のスーパーカー開発の記念すべき第一歩」と、興奮気味のスピーチで締めくくった。 その時、光岡の脳裏には走馬灯のように、創業から40年間のクルマ人生、カービジネスでの山あり、谷ありの忘れがたいシーンが去来し、鮮やかに映し出されていた。 農家の馬小屋を間借りしてのスタート 光岡進は、もともとはサラリーマンだった。高校卒業後、地元の国産車ディーラーで新車営業を担当していた。そんな光岡が独立、光岡自動車工業を創業したのは1968年2月。勤務先の系

    闘いつづける経営者たち|J-Net21[中小企業ビジネス支援サイト]
    cinefuk
    cinefuk 2017/04/19
    「ABBEY」のタケオカ自動車工芸、「BUBU」の光岡自動車、なぜマイクロカーの2大メーカーは富山県なのだろう?
  • 1