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ブックマーク / note.com/prapanca_snares (2)

  • 環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その3|DJ プラパンチャ

    顕彰や擁護は、歴史のプロセスのもっている革命的な契機を隠蔽しようと努める。顕彰や擁護が関心をもつのは、歴史の連続性を作り出すことである。そこで価値を認められるのは、作品の要素の中ですでに後代への影響史の中に組みこまれてしまった要素だけである。顕彰や擁護からぬけ落ちるのは、そこで伝統が途切れ、伝統を乗り越えようとする者に手掛かりを与えてくれるぎざぎざの切断面がひらける場所である。 ヴァルター・ベンヤミン/今村仁司ほか訳『パサージュ論3』[N9a,5]岩波文庫、2021年、p243 「合理的」で、「初期仏教」に忠実な上座部仏教? 前回に引き続き、「“ほんとうの”仏教」という観念に含まれている問題点について見ていきたいと思います。巷で時折見かける仏教観に、次のようなものがあります。 〇釈迦が説いた元々の教えは、「非合理的」な呪術や儀礼などを説かない「合理的」で「論理的」で「科学的」なものだった。

    環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その3|DJ プラパンチャ
    cinefuk
    cinefuk 2024/04/02
    "19世紀の合理主義精神は、キリスト教の代わりとなるものを探し求めていました。そんな時代に仏教を「発見」した西洋の学者たちは、自分たちが理想としていた合理的で理性的な人間像を、釈迦に投影していったのです"
  • 環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その1|DJ プラパンチャ

    はじめに さて、前回の最後に私はこう申し上げました。 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。 そういうわけで、己の仏教観をどのように訂正したのかを、へっぽこ勉強を

    環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その1|DJ プラパンチャ
    cinefuk
    cinefuk 2023/08/19
    "私の非常に狭い観測範囲でも、次のような見解を時折見かけます。〇釈迦が説いた元々の教えこそが“ほんとうの”仏教だ。大乗仏教は、釈迦が説かなかった要素が加えられて別物になってしまったニセモノだ。"
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