私はかつて、かなり時代遅れの寺山修司信者であった。私はかつて、かなり時代遅れの寺山修司信者であったから、私が彼を知った時もうすでに彼は死んでいて、その事はわたしが彼に対して抱く敬愛の念と同等の憎悪を彼に対して持つ正しい理由になった。何故彼は私のいる今に今の言葉を生み出してはくれなかったのか。 私が寺山修司の言葉に感激した時、彼はもうこの世界にはいなく、私が呼吸をする度に聞こえてくる言葉は寺山修司ではなく『なんとなくクリスタル』だった。わたしはなんとなくナンクリが好きになれずに居たため、彼の言葉通りに書を捨てる事も街へでる事も出来ずに、 ただ怨念として彼の死を呪った。 私は私の大好きな言葉が、私の時代としての代名詞にならず、 ただ掘り起こすべく眠る教科書的な退屈な権威になり果てていることを呪った。 私は仕方がないので向こう十年は肉体労働に従事する覚悟だったが、最初の3日で聞いた言葉が「よう兄