【読売新聞】「ずいぶんと手抜きだね」――。夕食に焼きそばを作ろうと支度をする妻に発せられた夫のこの一言が、“地雷”を踏んでしまいました。肉に下味をつけ、野菜をたっぷり用意していた妻にとっては思いも寄らない反応だったのでしょう。読売新
12月21 児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書) カテゴリ:社会8点 相模原障害者施設殺傷事件、京都ALS嘱託殺人事件、そして映画『PLAN 75』など、日本でもたびたび安楽死が話題になることがあります。 安楽死については当然ながら賛成派と反対派がいますが、賛成派の1つの論拠としてあるのは「海外ではすでに行われている」ということでしょう。 著者は以前からこの安楽死問題について情報を発信してきた人物ですが、著者が情報発信を始めた2007年頃において、安楽死が合法化されていたのは、米オレゴン州、ベルギー、オランダの3か所、それとスイスが自殺幇助を認めていました。 それが、ルクセンブルク、コロンビア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア(一部を除く)、スペイン、ポルトガルに広がり、米国でもさまざまな州に広がっています。 では、そういった国で実際に何が起こっているのか?
50年以上続くニッポン放送のご長寿ラジオ番組「テレフォン人生相談」。番組はいつも、パーソナリティを務める加藤諦三氏(83)のこんなメッセージから始まる。 【画像】番組を始めて10年頃、1980年代前半の若かりし頃の加藤氏 《変えられる事は変える努力をしましょう。変えられない事は、そのまま受け入れましょう。起きてしまった事を嘆いているよりも、これから出来る事をみんなで一緒に考えましょう》 人生相談は、“社会問題を写す鏡”である。社会学者の加藤氏は、不倫、不登校、人間関係に相続問題など、半世紀に渡ってジャンルを問わず悩める人々の相談に寄り添ってきた。東京大学教養学部卒で、現在は早稲田大学の名誉教授で日本精神衛生学会の顧問を務める。 若者から老人まで、悩みを抱えたリスナーの回答者としてアドバイスを送り、時には手厳しい意見を指摘してきた。昭和、平成、令和と、激動の時代の変化とともに人の悩みと向き合
ちなみにこの「だれにでもやさしい」のび太は、原作ではジャイアンを言いくるめてその場を逃れようとしてるシーン。 先日のアンサイクロペディアの一件といい、道徳の教科書作ってる人たちって本当に自分が引用してる作品読んでねえんだなあ。 https://t.co/E3PdGq3HE0
nomuch.hatenablog.com b.hatena.ne.jp これは、能町さんの「逆鱗」に触れることだったのだろうな、と思いながら読みました。 僕は能町さんが言っていることが正しいと思うし、北条かやさんという人は、文章を商売にしているのに、あまりにも配慮も覚悟も足りない、と感じています。 これを読んでいて、以前、インターネットで僕のことを批判してきた人たちがいたことを思い出しました。 いや、批判はしょうがないんだけど(まっとうな批判の範疇であれば、いちいち反応もしないことがほとんどです)、人格攻撃や家族にまで言及した誹謗中傷や、「どこそこであの人の悪口を言っていた」とか、根も葉もない嘘まで書かれていたのです。 第三者として読むと、「こんなのどっちが正しいかなんて自明の理なんだから、相手にしないほうがいいんだよ、スルー推奨!」って気分になるのだけれど、当事者としては、「黙っていて
北条かやについて書くと、大半の人は賛同してくれるのだけれど、わずかな人は「まだやってるのか」「しつこい」「どっちもどっち」という言葉を投げかけてくる。それは非常に辛く、心を削り取られる。「もう相手にしない方がいい」ともよく言われる。 でも、私が相手にしないといけないのだ。なぜなら、彼女は「反論できない人を悪く言う」から。反論できる私が反論しないといけない。私が例えば死んだりして反論できなくなれば、彼女は喜んで私の批判や愚弄を始めるだろう。そういう人なのだ。 こんな記事をいちばん上にあげておきたくないので、できるだけ早いうちに次の記事を書こう、と自分に向けてせっついておく。 北条かやが新刊を出すという。2016年にインターネット上で私と雨宮まみさんによって厳しく批判され、言葉で対抗せずに自分の命を粗末に扱ったことで場を凌いだ(らしい)彼女が、「インターネットで死ぬということ」という、また「死
トランプ米大統領のコンウェイ顧問が、トランプ氏の長女イバンカ氏が手掛けるファッションブランドを「買いに行こう」とテレビで発言したことをめぐり、ホワイトハウスが「(発言には)不正な動機や、個人的な利益を得る意図はなかった」と結論づけていたことがわかった。CNNが1日報じた。この問題をめぐっては、政府倫理局がコンウェイ氏の懲戒処分を検討するよう勧告していた。 ホワイトハウスが倫理局の求めに応じて出した書簡を、CNNが入手した。書簡では、ホワイトハウスの弁護士がコンウェイ氏と面会し、「言動は不注意によるもので、二度とすることはないだろう」と結論づけた。懲戒処分については触れていない。 コンウェイ氏は米大手百貨店が売り上げ低迷を理由にイバンカ氏のブランドの販売中止を決めた後、テレビの番組で「無料の宣伝をします。みなさん、買いに行こう」と呼びかけた。米国の連邦規則は、行政機関の職員が自分や知人などの
就活やビジネスで悩み相談を受けることがある。相談の内容はもちろん人それぞれだが、最終的に「ナンパにチャレンジしてみたら?」とアドバイスすることが複数回あったので、今後も同様に答えることがある思い、頭の整理のためにブログに書いてみる。 悩みについて思うこと。まずもって悩みに対する解決策なんて既に本やネットに書いてある。99%の悩みは、過去に誰かが同じような悩みをしているし、例えば、夢を実現するみたいな内容なんて本当にたくさんの本が出ている。それでも新しい本が出版されるのは、その問題に対して解決策がないことではなく、解決策が実行されていないからだ。 僕のところに相談に来る人も、実は既に自分で答えを持っている人の方が多い。だから僕も「もう自分の中で答えは出ているのではないだろうか?」と思って話を聞く。「僕はあなたのことを否定しない、何でも話して大丈夫」というスタンスで話を聞いていき、最後の方で「
モラルジレンマについての授業 昨日は参観でした。 年に一回この時期は全学年「人権」についての授業参観です。 6年生は『モラルジレンマ』について授業していたのですがそれが面白かったのです。 道徳・人権についての資料ネタ「決勝戦」 コージ・・・クラスのキャプテン。サッカーが得意。 ケンタ・・・コージの親友・サッカーは苦手だが頑張って練習し上達してきた。 6年生男子によるサッカーのトーナメント戦の決勝戦。 「みんなでがんばろう!」が合言葉。 優勝目指して頑張って練習してきた。 サッカーは11人。クラスの男子は15人。 ボールが3回コートの外に出たら順に交代して全員が試合に出れるようクラスで決めた。 現在同点。 残り時間3分。 最後の大事な局面。 次の交代はコージからケンタへ。 コージは一番の実力の持ち主。キャプテン。 ゴールキーパーの次郎は 「今、君が抜けたらだめだよ。今からが大事な時だよ。キャ
トロッコ問題(トロッコもんだい、英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。 フィリッパ・フットが1967年に提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(英語版) 、フランセス・キャム(英語版)、ピーター・アンガー(英語版)などが考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。 人工知能が制御する自動運転車においても、衝突が避けられない状況でAIの判断基準をどのように設計するかという問題とも関連している[1][2]。 なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車ではな
ふと、思い出したことがある。僕が小学校の時。四年生か五年生だっただろうか。僕は塾に通っていた。その塾というのはわりとスパルタで今じゃ考えられないけれど当たり前のように体罰があった。今となってはそこの塾で働いていた奴、全員死んでたら笑える、みたいな感じだ。僕も殴られたことがある。正しく言えばビンタなんだけれど。あんまり変わらん。なぜ殴られたか。当時、ペンを指でくるくるってやる、所謂ペン回しが流行っていた。で、僕もくるくるってかんじで華麗にペンを回せたらいいなーって思っていたので、塾でも練習してた。当然だけれど最初は下手くそなので、ペンをポロポロこぼしてしまう。んで、多分その塾の講師にとっては僕がペンをカチャカチャ落とす音がうるさかったんだろう。殴られた。死ね。いや、もう死んでるかな。死んでたら、笑える。 僕がその塾で殴られたのはその一度限りだったんだけれど、他の生徒とかはよく殴られていた。遅
道徳の授業で何をやったのか、他の教科以上に覚えていないし 授業を受けている当時もこの時間が何なのか、よく分からなかったが 猛烈に「この話嫌いだ!」と思ったストーリーがあったのを思い出した。 覚えているキーワードで検索したらすぐ見つかり、「発車オーライ!」というタイトルということが分かった。 スピードを上げた特急バスが、小さな村にある見落としそうなバス停のいくつかを通りすぎたころ、突然前方の座席でなにやらトラブルが起こった。 「なんとか、とうげの手前のホロ町でおろしてもらえんかのう。」 と、車掌さんに声をかけているのは、年配のご老人だった。 こまった表情の車掌さんは言った。 「お客さま、特急バスは決められた所しかお止めできないことになっているんです。 それ以外の所でお止めして、もしもおりられたお客さまに万が一のことがありますとたいへんなことになりますので、規則でお止めすることができないことに
2015-04-04 生まれてきたことは自分の責任ではない 生活・考えごと 親子関係 「生まれてきたことを後悔」ってよく考えてみると変なことで、なぜならそもそも自分で選んでいないのだから、後悔する余地なんてどこにもないよねって思うのです。生まれてきた不運を嘆くとか、生み出した親を恨むのは整合性が取れていますが、生まれてきたこと自体を「生まれなきゃ良かった」と自分の責任みたいに考えるのは、誰かに殴られたことに対して「殴られなきゃよかった」と後悔するみたいなもので、なんかちょっとそれって変だよね?と思うのです。 人は望んで生まれてくるわけじゃないです。出産のときに赤ん坊が産道を這い出てくるのだって、あれは赤ん坊の意思というより生理現象だと思ってます。梅干を見たら唾液が出るとか、たまねぎ刻んだら涙が出てくるみたいなもんです。意思とか言われても困ります。少なくとも私は、生まれたいから生まれたのでは
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く